第75話 奥さん?

 遥から連絡をもらって駅へと向かう俺の横に栞はいない。何やらやることがあると言って追い出されてしまったので、俺一人で迎えに行くことになった。ちょっとだけ寂しい。


 トボトボと歩き、駅に着くとポツンと一人佇み遥と楓さんが来るのを待つ。追い出されたとは言え、今回はちゃんと時間を考慮して出てきたので、数分後には伝えられていた電車が駅へと入ってくる。


 それから少しすると楓さんを先頭に、それに引っ張られるように遥が改札から出てきた。


 俺が軽く手を上げると、それに気付いた二人が近寄ってくる。


「おっす、涼」


「おっはよー! 高原君!」


「おはよう、二人共」


 電話の最後では遥に説教されてヒーヒー言っていた楓さんだが、今は元気いっぱい、いつもの調子を取り戻していた。宿題を始めたらこれが萎んでいく未来が見える気もするが。


 そんな楓さんは周りをキョロキョロと見渡す。


「あれー? しおりんは? 一緒じゃないの?」


 どうやら栞を探していたらしい。


「栞ならうちで待ってるよ。なんかやることがあるって。だからここには俺だけだよ」


 俺がそう言うと、楓さんは露骨に残念そうな顔をする。


「えー! 早くしおりんに会いたかったのにー!」


「彩……、お前遊びに来たんじゃないからな? それに時間を作ってくれた涼に失礼だろうが」


「そんなことわかってるよー!」


 遥が楓さんの頭を軽く小突くと、俺を放置してギャーギャーと騒ぎ始めた。


 元気なのは結構だけど、待たされているだけの俺は暑くて仕方がない。程々のところで止めて、うちへと案内することに。


「栞も待ってるからそろそろ行こうよ」


「はっ! そうだった!」


「お前、本当に目的忘れてないだろうな……」


 結局歩きながらもなかなかに騒がしかった。


 なんでも、せっかく栞と友達になったのに夏休みに一緒に遊んでいないとかなんとか。栞にそんな友達ができたことは嬉しいけど、えらく気に入られたものだ。


 ともかく遊ぶのは宿題が終ってからになるだろう。ちゃんと終わるのかはわからないが、その辺りはきちんとしている栞が許さないと思うから。


「ほら、着いたよ」


「おー、ここが! ねぇ、高原君、早く早く!」


 どれだけ栞に会いたいのか、しきりに急かす楓さん。


 俺が苦笑しながら鍵を回して玄関を開けると、キッチンの方からパタパタとスリッパを鳴らしながら栞が出迎えに来てくれた。出かける前は着けていなかったエプロンを身に着けて。


「おかえり、涼」


 栞は後ろの二人には目もくれず、俺にだけニッコリと微笑んだ。


「ただいま、栞。もしかして料理中?」


「うんっ。お昼ご飯の仕込みをちょっとね。ほら、昨日約束したでしょ?」


 なるほど、俺だけで迎えに行かせたのはこのためらしい。今日の昼は一人で作りたいって言っていたのを思い出した。


「そうだったね。楽しみだよ」


「へへ〜。でもね、準備する時間が短くなったから、手抜きな作り方に変えちゃった。ごめんね?」


「ううん、大丈夫だよ」


 作り方がどうの、というより俺にとっては栞が作ってくれるということに意味がある。昨日のように二人で作るのも良かったけど、栞が作ってくれるというだけで特別感が増すのだ。


 この気持ちを伝えようと、栞の頭に手を伸ばそうとしたところで、後ろから声がかけられた。


「なんかしおりん、もう完全に奥さんじゃん!」


「なぁ、涼。お前ら、もう結婚してたっけ?」


 お約束みたいなセリフをもらってしまった。俺達も新婚っぽいなって思って浮かれてたわけだけど、人から言われるのはなんともこそばゆい。


「いや、まだだけど……」


「でも涼は色々考えてくれてるもんねー?」


「そりゃあ、ね? 栞とはずっと一緒にいたいし」


「へへ、私もっ」


 満面の笑みで腕に抱きついてくる栞。何度でも言うが可愛い。俺もついつい頬が緩んでしまう。


「相変わらずべったりだねぇ。そこがしおりんの可愛いところなんだけど」


「ふふふ……。彩香、そんなこと言ってられるのも今のうちだけなんだからね。みっちりしごいてあげるから覚悟しなさい?」


 笑顔のままスッと目を細める栞。俺に甘やかされて一度は機嫌を直したが、やはり二人きりの時間を邪魔されたのを根に持っているようだ。俺に勉強を教えてくれる時は優しい栞だが、今日は厳しめになる予感がする。


「ひっ……! し、しおりん、怖いんだけど……。可愛い顔が台無しだよ……?」


「手伝ってあげるのにそんなこと言っていいのかなぁ?」


 栞の威圧感が一段と増す。やっぱり栞は怒らせたらダメだ。矛先は俺に向いてるわけじゃないのにゾクリとする。


 栞に睨まれて楓さんは小さくなって、少しだけ震えている。まるで蛇に睨まれた蛙のよう──いや、栞を蛇に例えるのは抵抗があるから、猫を前にした鼠の方がいいかな?


「うっ、ごめんなさい! がんばりますー!」


「黒羽さん、ごめんな。このバカのこと頼むわ」


「あっ! バカって言ったー!」


「うっさいわ、このバカ。期末でも赤点ギリギリばっかだったろうが!」


「だって勉強嫌いなんだもんっ!」


 よくこれでうちの高校に受かったものだ。きっと遥も苦労しているのだろう。とは言え、世話好きそうな遥のことだから、こういうところが放っておけないのかもしれない。


「はいはい、バカやってないで始めるよ」


 栞がパンパンと手を叩き、遥と楓さんを止める。ひとまずは90分集中するということに。栞に二人をリビングのローテーブルに案内してもらって、俺は飲み物の用意。グラスに氷とお茶を入れて全員の前に置いて、栞の隣に腰を下ろした。


「ありがと、涼。気が利くね」


「ううん、これくらいはね」


 俺には相変わらず甘い。楓さんにももう少し優しくしてあげればとも思うけど、今回に関しては自業自得なので我慢してもらおう。


 配置はローテーブルの長辺に俺と栞、その左右の短辺に遥と楓さん。俺達が隣同士なのはいつもの事として、この二人を隣にしておくと騒ぎ出しそうだから、という理由で離しておいた。


 俺が座ると床に置いた手を栞がつついてくる。なんとなく意図を察したが確認のため栞を見ると、甘えるような顔をしていたので思った通りらしい。


 キュッと手を握ると栞も握り返してくる。隠れてこんなことをしていると、悪いことをしているような気分でドキドキする。でも栞の手の感触には抗えないので離すつもりはない。


 それどころかもっとという気持ちが湧いてきて、俺から指を絡めた。栞は一瞬ピクリと反応したけど振りほどかれることはない。俺達はもう一度目を見合わせてクスリと笑った。


「あのさ、しおりん、高原君? 無言でイチャつかれるとやりにくいんだけど……」


 手を繋いでいることはバレていなさそうだけど、雰囲気まではごまかせなくて、楓さんから非難の言葉と視線が飛んできた。


「なにか問題でも?」


「いえっ! なんでもないですー!」


 それも栞の一睨みで打ち消される。あの騒がしい楓さんを大人しくさせるとは、さすが栞。なにがさすがなのかはさっぱりわからないけど……。


「それじゃ二人共、一応私達が見てるけどまずは自分で考えてやること。少し考えてわからなかったらすぐに聞くこと。無駄に考えても時間がもったいないから。いい?」


「「は、はい!」」


 遥は怒られていないはずなのに、楓さんと一緒にすっかり栞のペースにのまれていた。


 そこからは栞の方針通り、俺達は基本見守るスタイル。間違いに気付いたり質問された時に対応していく。


 遥は時々俺がアドバイスを出す程度で、ほぼ自力で進めていく。一方楓さんはというと──。


「うー……、難しいよぉ。眠くなってきちゃった……」


 始めて早々こんな感じだ。本当に勉強が苦手らしい。


「彩香、寝たらどうなるか、わかってるよね?」


 そしてちょくちょく栞に怒られている。


 それでも栞のおかげで、どうにかこうにかきっちり90分やりきった。栞が休憩を言い渡すと、ベチャッとテーブルに突っ伏して、いつもの元気はどこへやら、まるでゾンビみたいだ。


「あ"ー! 疲れたよぉ……。こんなに集中したの初めてぇ……」


「これくらいで大袈裟だなぁ。にしても彩香、普段からもう少し勉強した方がいいんじゃない? ほとんど私が教えないとダメだったじゃない」


「だってぇ……」


 これには栞も呆れ顔だ。


「でも涼も黒羽さんも教えるの上手いな。おかげでだいぶ進んだわ」


「遥は手がかからなくて楽だったよ」


 大変だったのは栞の方だ。なんとなく繋いだ手から楓さんへの苛立ちや呆れが伝わってきたので、撫でたりして落ち着かせていた。


 ムッとした顔がその度にヘニャッとなるのは見ていて面白かった。他にもこっそりバレないように視線を交わしてみたりして、俺達は俺達でこの状況を楽しんでいた。


 さすがに調子にのって肘で栞の脇腹をつついた時はくすぐったかったのか軽く睨まれてしまったのが反省点だ。何事もやりすぎは良くないらしい。


「さて、いい時間だしお昼ご飯にしよっか。彩香と柊木君は何か用意してたりする?」


「んーん、急いで出てきたから何も。途中で買いにいけばいいかって思ってたしね」


「じゃあ私達の分作るついでに二人の分も作ろうと思うけど、それでもいい? 一応多めに準備してあるから」


 栞がそう言うと楓さんは顔を輝かせた。


「えっ! しおりんの手料理?! そういえばさっきから美味しそうな匂いがしてるような?」


「言っとくけど、涼に作ってあげるついでだからね?」


「うんうん、全然オッケーだよ! でも──」


 遥と楓さんは顔を見合わせて頷いて。


「やっぱりもう奥さんだよね?」「やっぱりもう結婚してるだろ?」


 二回目のこの言葉を頂戴してしまった。

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