第70話 栞の心境の変化
風呂から出てリビングに戻った俺を出迎えてくれたのは真っ赤な顔をした栞だった。
「お、おかえり」
「ん? 栞、顔赤いけど、大丈夫……?」
栞はソワソワと落ち着かず視線を彷徨わせて、俺と目を合わせようとしない。ガチガチに硬い表情をして、さらに声も心なしか震えている気がする。そんな姿を見せられると俺がいない間に何かあったのではないかと心配になる。
「だ、大丈夫だよっ? えっと、そのっ、私もお風呂、行ってくる、ね?」
「えっ、あ、うん。いってらっしゃい?」
栞はまるで俺から逃げるかのように飛び出していった。
まさか……、さっきあんなキスをしてしまったからか?
その直後は幸せそうに蕩けるような、それでいて照れを含んだ微笑みを向けてくれていたはずなのに。栞のことだから、買い物に向かう道中のように、やってしまった後で恥ずかしくなってるということも考えられるけど……。
それとも。ん〜……? もしかして、警戒されてる……?
この後は一緒に寝る約束をしているし、俺が手を出すとでも思っているのだろうか?
栞に無理をさせるつもりなんて微塵もないわけだけど。そのために栞に鍵を預けたのだし。
一度ちゃんと話をしたほうが良いのかもしれない。
実は栞がその気で、ただ動揺しているだけというならそんなに問題はない。そしたら……、きっと俺も止まれなくなると思うし。今日一日のあれやこれやはあまりに刺激的だったので、我慢していないと言えば嘘になるから。
でも逆に栞にその気がないとか、怖がっているならば、栞がそうしたいと思うまで我慢するつもりだ。いや、我慢という言い方はちょっと違うかも。そういうことは栞と気持ち的に足並みをそろえたいって思うから。
俺の中で『ずっと一緒にいる』という約束はそういう意味合いとして捉えられているのだ。
なんにせよ、栞が戻ってきたらしっかりと話し合おう。このまま同じベッドに入っても、こんなんじゃ抱きしめるのにも気を使うし、気まずいまま一日を終えたくない。
そう自分の中で結論を出した俺は、さっきまで栞が座っていたソファに腰を落ち着けた。ほのかに栞の温もりが残っているような気がする。それを感じると、またどうしようもなく栞が愛おしくなる。
そっと目を閉じると、今日一日で見た栞の笑顔が浮かんできた。やっぱり一日の最後はそんな笑顔で締めくくりたいという思いがわいてくる。俺はそのために必死で頭を働かせて、栞にかけるべき言葉を探すのだった。
*
………………。
…………。
……。
栞が戻ってこない。栞が風呂へ向かってから間もなく2時間が経つ。そろそろ日付も変わろうとしていて、心配になってきた。
栞の普段の入浴時間を知らないのでなんとも言えないが、いくらなんでも遅すぎるんじゃないだろうか。まさかのぼせてるんじゃ……?
もしそうなら栞を預かっている身として、聡さんと文乃さんに顔向けできない。さすがに放っておくことができなくて様子を見に行くことにした。
とは言え、いきなり突入して裸の栞とばったり、ってのはまずい。そんなことになったら話し合いどころではなくなってしまう。
ひとまず脱衣所のドアをノックしてみることにした。
──コンコンッ。
驚かせたりしないように控えめに。と思ったのだけど。
『ひょわぁぁ!』
返ってきたのはすっとんきょうな叫び声だった。俺のほうがビックリしたが、ひとまず無事そうなことに安堵する。
「えっと、栞? なかなか戻ってこないから心配できてみたんだけど、大丈夫?」
「あの、えっと、大丈夫、だよ? ほ、ほら、女の子は時間かかる、ものだし?」
「それならいいんだけど……」
「い、今ね、出ようと思ってたところだから……」
大きく深呼吸をする音が聞こえて、カチャリとドアが開き栞が出てきた。身を守るかのようにバッグを胸に抱いて、可愛らしいパジャマを身に着けていた。ただパジャマのズボンの丈が短く、スラリとした白い脚が太ももの真ん中辺りから露わになっていて、非常に目のやり場に困る。
それに湯上がりのせいだろうか、栞の肌はほんのりピンク色に染まっていて、シャンプーかなにかわからないけど、とにかくめちゃくちゃいい匂いがする。
おかげで色々と言おうと思ってたことが、すっぽり抜け落ちてしまった。
「おまたせ……」
「本当に遅いから心配したんだよ?」
どうにか絞り出せたのはこんなセリフだけ。これではさっき言ったのと同じことの繰り返しだ。
「ご、ごめんね……。えっと……、色々手間取っちゃって……」
まぁ、慣れない環境だからそれも仕方がないことだろう。でもそれだけじゃないのは栞の様子を見れば一目瞭然。やっぱりこのままにはしておけない。
「そっか。とりあえず遅くなったし、まずは寝る支度済ませちゃおうか?」
俺もいったん落ち着きたかったのでそう提案した。
「う、うん……」
二人で洗面台の前に並んで歯を磨くことに。時々栞の腕が俺に当たる度に栞はビクリと身体を震わせた。
やっぱり様子がおかしい。色々と恥ずかしくなるようなことをしてきた俺達は一時的に気まずくなったりはしたが、それでも栞の照れの中には嬉しそうな様子が見て取れた。
でも今はそれが見えない。ただただ全身をガチガチにして、表情だって硬いままだ。
幸い、歯磨き粉のスーッとした感じが程よく冷静さを取り戻してくれたので、これならちゃんと話ができそうな気がしてきた。
二人でリビングに戻ると栞をソファに座らせて自分もその横に腰を落ち着けた。
「ねぇ、栞?」
「な、なぁに……?」
やっぱりいつもの栞らしくない。普段の栞ならこうして二人で座っていたら絶対くっついてくるはずなのに、今は俺から距離を取っている。
「俺が風呂から出たあたりから様子が変だけど、どうしたの?」
「どうも、しないよ……?」
「本当に?」
「う、うん……」
俺が声をかける度に縮こまって、どう見てもなにもないわけがないのに、栞はなかなか話そうとしてくれない。
このままでは埒が明かないと判断した俺は少し強引な手段に出ることにした。
俺はおもむろに立ち上がると、無理矢理栞を抱き上げた。二回目のお姫様抱っこだ。
「えっ? えっ? な、なに? どうしたの涼?」
俺の腕の中で栞が暴れて落としそうになるのを、気合で耐える。ちょっときつい。こんなことなら普段から鍛えておくべきだった。
「暴れないで。このまま俺の部屋に連れてくから」
「それって……。その……、あぅ……」
栞はボッと顔を赤くしたかと思ったら、急に大人しくなった。暴れられなければこっちのものだ。幸い栞は軽いし、俺の部屋くらいまでなら非力な腕でもどうかなる。
壁にぶつけたりしないように気を付けて栞を部屋まで運んだ。
栞をベッドに降ろして、その後ろからギュッと抱きしめた。遠慮するなと言われたのでこれくらいは許してくれるだろう。それに、逃げられたら困るしね。
「ねぇ、栞。俺達が付き合い始めた日に俺がここで栞にお願いしたこと、覚えてる?」
このためにわざわざ場所をうつしたのだ。同じ場所の方が栞もより思い出してくれると思って。
「えっ……?」
「俺さ、何か思うことがあったら言ってほしいって、そうお願いしたと思うんだけど」
未だに栞のことを全て察してあげることはできない。不器用な自分にもどかしくなるけれど、何かあった時にそのままにしないためにそう伝えたんだ。
火種は小さいうちに消したほうが良いから。たぶんそれがずっと良い関係を続けるためになると思って。
「うん、覚えてるよ……。涼ってやっぱり優しいんだなって思ったもん……」
「じゃあ、話してくれるよね?」
「うっ……」
そこでようやく栞が俺の目を見てくれた。それだけのことがとても嬉しい。だから、その気持ちをのせて、微笑みかけた。
「ずるいよ、涼……。そんな顔されたら言わないわけにいかないじゃん……」
「むしろそうしてほしいんだけどね?」
「もう……、わかったよ。でも、怒らない……?」
「怒らないよ」
ずっと黙りを決め込むなら怒ったかもしれない。話す気になる程度には。でも話してくれるなら別、俺もちゃんとそれに向き合うつもりだ。
「じゃあ……、えっとね、これ……」
栞がおずおずとパジャマのポケットから取り出したのは、俺が午前中に預けた鍵だった。
「ごめんね、開けちゃった……」
申し訳なさそうに栞が自白した。ここにきて、俺は自分の行動を後悔した。
「あー……」
なるほど。つまり『あれ』を見たということか。
「それでね、涼に遠慮しないでなんて言ってその気にさせたのに、なんだか怖くなっちゃって……。ごめん、なさい……」
栞はついにポロポロと泣き出してしまった。泣かせてしまうつもりはなかったのに、本当に母さんは余計なことをしてくれたもんだ。
「ごめんね……。こんな不甲斐ない彼女で、ごめんなさい……。涼を煽ったのは私のくせに……。涼だって、こんな面倒くさい女……、イヤだよね……」
こんなにも涙を流す栞を見ると俺まで悲しくなってしまう。だから俺が栞を安心させてあげなければ。それができるのは俺しかいないのだから。
「バカだなぁ、栞は。俺がそんなことで栞を嫌いになると思う?」
「だってぇ……」
俺が栞を嫌いになることなんてない、それは自信を持って断言できる。でも、この程度ではまだ泣き止んでくれないらしい。
「別に俺は急いでないよ? 俺はね、栞が笑って隣にいてくれるだけで嬉しいよ。栞には無理させたくないんだよ」
「でもっ、でもっ……」
「いいって。ほら、笑って。栞は笑ってるほうが可愛いよ? 栞の笑ってる顔を見るのが、今の俺の幸せなんだからさ。無理しなくていいんだ。今のままで、俺は十分満たされてるよ」
俺がそう言うと、栞は身体を反転させて、俺の胸に縋り付いた。そのまま何も言わずに泣き続けて、俺も栞が泣き止むまで頭を撫で続けた。
*
しばらくして泣き止んだ栞は少しだけいつもの調子を取り戻した。
「ごめんね、涼。私、いつも涼に甘えてばっかりだね」
「もういいって。栞にならいくらでも甘えられたいくらいだしね」
「もう、涼ったら……。私に甘すぎるよ……」
照れながらも、こうやって幸せそうな顔をしてくれる栞に安心する。やっぱりこの方が栞は可愛らしい。ついでに甘えてくる栞はもっと可愛い。
「さ、そろそろ寝よ? 遅くなっちゃったからさ」
ひとまず一件落着、これで心置きなく寝ることができる。そう思ったのに──。
「やだ……」
栞の口から出てきたのは、まさかの拒否だった。
「えっ? 寝ないの?」
「寝るけど……、まだイヤ。ねぇ、いくらでも甘えていいって言ったよね?」
「言ったけど?」
「あのね、私まだ涼の本心を聞いてないよ。ねぇ、涼は本当はどうしたいの? 私、それが知りたい」
さっきとは打って変わって、どこか覚悟を決めたような栞から目が離せない。離させてくれない。じっと見据えられて、どうやら今度は俺が押される番らしい。
「それは……、さっき言った通り……」
「それは私のためでしょ? そうじゃなくてね、涼の本当のところを聞きたいの」
「それは……」
「それは?」
栞の顔が近い。キスする寸前くらいまで近付いていて、おまけに身体も押し付けられてクラクラする。それにどこか妖艶な雰囲気まで醸し出している気がする。
あぁ、こりゃダメだ。
そう思った俺は素直に白状することにした。
「そりゃ、俺だって男だからね。栞のことが好きだし、栞みたいに可愛い子にこんなにくっつかれたらそういう気分にも──んっ……?」
最後まで言わせてもらうことはできなかった。口は栞にピッタリと塞がれて、突然のことに反応できなかった俺は簡単に栞の侵入を許してしまう。そして、そのまま栞に押し倒された。
「んっ……。んんっ……?」
「涼……。んっ……。好きっ……。はあっ、んっ……」
栞に口内を蹂躙される。息継ぎの度に俺の名前を呼び、想いを告げる栞。もう何がなんだか、わけがわからない。
それはしばらく続き、酸欠で頭がボーっとしてきたころようやく終わった。顔を離した俺達の間には唾液の橋がかかり、途中でプツリと切れた。
さすがに食後の時もここまではしていない。バクバクする心臓を抑えて栞を見ると、栞の目は今までにないくらい潤み、トロトロに蕩けていた。
「し、栞……?」
「あのね、もう一個だけ、我儘聞いてくれる……?」
「えっ……。う、うん」
判断力の鈍った頭では栞が何を言い出すのか予測もできず頷いてしまった。
そんな俺を見下ろしながら、栞は蠱惑的な笑みを浮かべて静かに言うのだ。
「ねぇ、涼。……しよ?」
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