第68話 今更な間接キスと初めてのキス

 お米の炊き忘れにより予定外に時間が空いてしまったものの、栞と一緒だと時が経つのが早い。話をしたりじゃれ合ったり。


 ──まぁなんというか、今更だから開き直るけど……。


 イチャイチャしていたらあっという間だった。


 ──〜〜♪


 炊飯器から炊きあがりを告げるメロディが流れた。


「あっ、ご飯炊けたみたいだよ」


 栞はそう言うと、俺の隣から立ち上がりキッチンへと向かう。俺もそれを一足遅れて追いかけた。


 栞が炊飯器のフタを開けると、むわりと炊き立てのお米の良い香りが充満する。その香りを吸い込むと急に身体が空腹を訴えてくる。


 栞とくっついている間はそんなの全然気にならなかったというのに。ご飯が炊けた途端に早く食べさせろと主張してくるのだから不思議なものだ。


「うん、いい感じに炊けてるね。それじゃちょっと遅くなったけど食べよっか。涼はお皿準備してくれる?」


「オッケー」


 栞がカレーを温め直している間に食器棚から皿とスプーン、サラダ用にフォークを取り出す。ついでにひとまず冷蔵庫にしまっておいたサラダも出してドレッシングと一緒にダイニングテーブルへ並べていく。


 そんな俺の姿を見て栞は微笑む。


「涼はきっといい旦那さんになるねぇ」


「そうかな?」


 まるでさっき俺が考えたいことと同じようなことを口にする栞にドキッとする。俺は口には出していなかったはずだけど……。


「だって、言ったことだけじゃなくて、色々考えて準備してくれるじゃない?」


「そりゃあ」


 せっかく一緒に作ったのに、俺だけ座ってボケーっと待ってるなんてことできるわけないし、したくない。


「そうやって当たり前みたいにしてくれるところ、とっても素敵だよ」


 臆面もなくそんなことを言われると照れてしまう。栞はすぐこういうことを言うから困る。表情を見れば本気で言っているのもわかるので余計にたちが悪い。


「そう、かな……?」


「そうだよ。でもね──」


 栞はカレーを温めていた火を消して俺の隣へやってくる。そして、俺がテーブルを挟んで向かい合うように配置していた食器を隣り合うように並べ替えた。


「今日はこっちの方がいいな」


「え、なんで?」


 俺としては向き合って、栞の顔を見ながら食事できたらいいかなと思っていたので栞の行動がよくわからない。


「ふふ〜ん、後でわかるよ」


 そう言って笑うと、栞はまたキッチンへ戻っていった。


「ほーら、涼もおいでよ。食べる量がわからないからカレーはセルフだよ」


「う、うん。わかった」


 意味はわからないが、このまま突っ立っていてもしかたがないので栞に続くことにする。ご飯とカレーを皿によそい、テーブルに並べて席についた。


 一度だけ栞と顔を見合わせてから、二人で行儀よく手を合わせる。


「「いただきます」」


 スプーンを手にカレーをすくって、さぁ一口目、というところで栞に止められた。


「あ、涼。ちょっとだけ待って」


「ん? どうしたの?」


「一つ我儘言っていいかな?」


「栞の我儘ならいくらでも聞くけど?」


 でも今じゃなくても。何かしてほしいことがあるのなら、後でいくらでも聞いてあげるのに。


「本当?! じゃ、じゃあね……」


 栞は慌てた様子で自分の皿からカレーをすくうと俺の前に差し出した。


「はい、涼。あ〜ん、して?」


 ほんのり頬を染めてはにかみ、小首を傾げる姿は破壊力が強すぎた。早々にカレーを口に含んでいたら危ないところだった。吹き出さないまでも、確実にむせていたことだろう。


「我儘って……、これのこと?」


「うん、そうだよ。言質はとってるんだからね。今更イヤって言ってもやめないよ?」


 栞の押しが強い。絶対に断らせないって顔をしてる。


 ただ、妙に納得した。なるほど、わざわざ俺が並べたのを配置替えしてまで横並びの席にしたのはこのためか。


「ほら早く早くっ。垂れちゃうよ」


 そう言われては仕方がない。覚悟を決めた。


「じゃあ……、あ〜ん」


 口を開くとそっとスプーンが差し込まれる。俺の口の中にカレーを残してスプーンが引き抜かれて。栞は俺が飲み込むまでずっと微笑みを浮かべてこちらを見ていた。そんなに見られたら恥ずかしいじゃないか。


 こんなの小さい子供か、バカップルくらいしかやらないだろうに──って、俺達も学校で散々バカップルって呼ばれたっけ?


「どう? 美味しい?」


「うん、美味しいよ」


 正直に言えば味は普通のカレーだ。味付けに特別なことは何一つしていないのだし、使ったルーも市販の普通のものだ。でも、いつもより美味しく感じるのはきっと栞と一緒だからで。自分の手も加わって、栞と協力して作り上げたものだからだろう。


「えへへ。これもね、やってみたいと思ってたんだぁ。私ね、今回の話が決まってから涼ともっと仲良しになるためにやりたいこと色々考えてたの」


 今でも周りからは呆れられるほど仲は良いと思うが、それでももっとと言ってくれる栞の気持ちが素直に嬉しい。なら俺も──。


「じゃあ、お返ししなきゃね」


 俺も栞と同様に、カレーをスプーンにすくって栞に差し出した。


「今度は栞の番だよ。ほら、あ〜ん」


「えっ……! 私はいいよぉ、恥ずかしいじゃん」


 栞は言質までとってしたくせに、自分がされるとは思っていなかったのだろう。挙動不審気味にワタワタし始めた。


 いつも俺が動揺させられることが多いので、こういう栞が見られるのは楽しい。ちょっとだけ意地悪な気持ちもわいてしまう。


「俺だけじゃ不公平でしょ? 俺ももっと栞と仲良くなりたいんだけどなぁ」


「もう……。そんなこと言われたら断れないじゃん。えっと……、あ〜ん」


 可愛らしく口を開くと同時になぜか目を閉じる栞。キスをねだる顔が頭をよぎるが今はそんなことをする時じゃないので、栞の口の周りを汚さないように気を付けてカレーを運んだ。


 目を閉じたままもぐもぐする栞から目が離せなくて。なんか不思議な感覚だ。


 これ、ちょっと楽しいかもしれない。


「やっぱり恥ずかしかったよ……。でも、美味しいね」


「うん、美味しいよね」


 きっと栞も俺と同じことを感じてくれてるはず。やっぱり好きな人と一緒だと色んなことが何倍も良く感じるようになるんだ。


「もっとしたい気もするけど……、こんなことしてたらいつまで経っても食べ終わらないね。もう普通に食べよっか」


「そうだね」


 そうじゃなくても米の炊き忘れで少し遅くなってしまったのだ。ずっと交互に食べさせ合っていたら、食べ終わるのがいつになるかわかったものじゃない。名残惜しいとは思うけど。


 まぁ、こういう機会もまたすぐあるだろう。そう思って今度は自分の口にカレーを運んだ。


 うん、やっぱりいつもより美味しい気がする。


「あっ……!」


 栞がスプーンを見つめて固まる。


「どうしたの?」


「えっとね、涼はスプーンそのままでも、平気……?」


「あー……」


 全く考えていなかったけど、栞は俺に、俺は栞に食べさせている。そして俺はそのまま自分でも食べていて。


 俺は栞となら全然平気だけど、栞がそうとも限らない。


「う〜ん。まぁ、いっか。今更間接キスもなにもないよね……。もういっぱいキスしてるもんね」


「いやっ、栞がイヤなら新しいスプーンを──」


 キスと口の中に入れたスプーンじゃわけが違うと思って慌てて席を立とうとすると。


「あむっ」


 栞はそのままのスプーンでカレーを口にした。


「へへ、全然平気だよ。だって涼のだもん。他の人ならイヤだけどね」


 こうやって俺のことを受け入れてくれることがたまらなく嬉しい。思わず栞の顔を見ながら立ち尽くしてしまった。


「ほら、大丈夫だから涼も座って? 冷めないうちに食べようよ」


「う、うん」


 それからは二人無言で食べ進めた。


 なんというか、ちょっといけないことを想像してしまって。まだ唇を触れ合わせるだけのキスしかしていない俺達だけど、その先のキスがあることは知っている。


 いつかはそういうのもしてみたいとは思うけど……。


 悶々としながら黙々と口を動かした。時々栞の方を確認すると、栞も俺を見ていて目が合って。そんなことを何度かしているうちになんだか可笑しくなってきた。


「「ごちそうさまでした」」


 食べ終わる頃にはひとまずいつもの調子を取り戻した俺達。また二人で協力して皿を洗って、洗い終わってタオルで手を拭いているところで栞が俺の服の裾をチョンと摘んだ。


「ねぇ、涼?」


「なに? って──んん!」


 いきなり栞に抱きつかれてキスされた。いきなりどうしたのかと思ったら、俺の唇を割って栞の舌が侵入してきた。そのまま栞の小さな舌が恐る恐るといった様子で俺の舌を突く。


「んんんっ……?」


 わずか数秒の出来事だけど、頭が沸騰しそうな衝撃だった。栞の舌が俺のそれに触れた時の感触はなんとも形容しがたい。もっとしていたいと思うような……。


 にしてもいきなりすぎて頭がついていかない。どうにかなりそうなくらい心臓はバクバクしている。


「ね? 私、こんなことしても涼となら平気なんだから。ねぇ、涼は、イヤだった……?」


 俺から離れた栞は頬を真っ赤に染め上げ、瞳はトロンと潤んでいた。


 どうやらさっきのスプーンの件を身を以て証明してくれたらしい。栞のことが大好きな俺がイヤなわけないのに。


「どうかな……。まだわかんないかも。だから……、もう一回してみてもいいかな?」


 もちろんわからないなんて嘘だ。ただもう一度するための口実を必死でひねり出しただけ。


「しょうがないなぁ。あと一回だけだよ?」


 こう言っておかないと、歯止めがきかなくなってしまうからだろう。初めて普通のキスをした日のことは記憶に新しい。お互い夢中すぎるのも考えものだ。でもここまできてやめる気は更々ない。


「うん、ありがと。栞……」


「涼……」


 見つめ合うこと数秒。我慢できなくなった俺達はどちらからともなく唇を触れ合わせた。それから俺達はさっきよりも長く、お互いを貪るようなキスを交わす。


 は当然といえば当然だが、カレーの味がした。

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