第66話 素直に甘えて

 目が覚めると、大好きな微笑みが俺を見下ろしていた。慈しむような眼差しの栞だ。


 ぼんやりしながら見つめるとニッコリと笑いかけてくれる。相変わらず優しい手付きで頭も撫でてくれて、どうしようもないほど栞への愛しさが溢れる。


「おはよ、涼。良く眠れたかな?」


「うん……」


「よかった。お膝貸してあげたかいがあったね」


 俺はそれには答えずに、自分の気持に従って栞に抱きついた。寝転がったまま、身体を栞の方へ向けて、栞のお腹に顔を埋めて背中に腕を回した。


「栞、好き……」


 寝起きで頭がぼんやりして歯止めが効かない。栞の甘い匂いを吸い込んで、柔らかな身体をギュッと抱きしめると幸福感でフワフワする。このままもう一眠りしたい、そんな誘惑に襲われる。


「ふふっ。涼ったら、すっかり甘えん坊さんになっちゃって。私のこと言えないね。それとも寝ぼけてるだけかなぁ?」


 栞が嬉しそうにコロコロと笑う。


 栞の言葉でだんだんと意識がはっきりしてきて、俺は自分の今の状態をしっかりと認識してしまった。


 栞の膝の上で、どれくらいの時間かはわからないが熟睡して、起きたかと思ったらいきなり抱きついて。やりすぎた、そう思った。


「あっ……。ごめん、栞」


 慌てて身体を離そうとしたら、栞の手にやんわりと止められた。おでこを人差し指で抑えられただけなのに。起き上がりかけていたのが、栞の膝に逆戻りだ。


 そのまま栞は俺の頬を軽く抓った。抗議の意を示すように。でも痛くない力加減でフニフニと弄ばれる。


「こんなことで謝らないの。言ったでしょ、涼はもっと我儘になっていいんだよって。私ね、こうやって涼に甘えられたら幸せだよ?」


「なんか恥ずかしいじゃん……。寝顔とか見られたし……」


「今更そんなこと。そんなの前にも見たじゃない」


 確かに。それどころか写真まで撮られて、栞のベッドの枕元に飾られている。つまり、毎日見られているということだ。


「それに涼だって私の寝顔見たでしょ?」


「あれは栞が無理するから」


 無茶して寝ずに出かけて、寝落ちして。文乃さんと継実さんの前でお姫様抱っこまでさせられて。


 とは言え、栞の寝顔を見たのは事実。あどけなくて愛らしい、いつまでも見ていたくなるような寝顔だった。あの日の帰り際、どれだけ後ろ髪を引かれたことか。


 文乃さんの手前、眠る栞のそばに居続けるのがはばかられて撤収したけど、そうでなければ栞が起きるまで見ていたかった。


「でも、お互い様でしょ。それにさ、今日は……、一緒に寝る、よね……?」


 頬を染めて、視線を彷徨わせながら栞は言う。その言葉に、俺の頭の隅にこびりついていた眠気の残滓も綺麗サッパリ吹き飛んでしまった。


 そういえば栞用の寝具なんて用意していない。母さんはあんなこと言った手前、一緒に寝ればいいと思っていそうだし、何も言わなかったのは忘れたわけではなくてわざとだろう。俺は俺で舞い上がっていてそれどころじゃなかった。


 どのみち、俺達がどうしたいか次第ということだ。二人が合意のうえなら一緒に寝ることになるし、どちらかが拒めば別々に。栞に俺のベッドを使ってもらって俺はソファででも寝ればいい。


「栞は、それでいいの?」


 俺が尋ねると栞は少しだけ悩んでから口を開いた。


「私は、その……。涼がどうしたいか、先に聞きたい、な。涼は優しいから、私がしたいって言ったら大抵のことはしてくれるでしょ? だから、今回は涼の意見を尊重したいの。いつも私がしてもらってばっかりだから、さ」


 栞にそこまで言われて俺はようやく気が付いた。俺が栞に対して思っているのと同じように、栞も考えてくれているんだってことに。


 栞は、俺が栞を優先して自分のことを後回しにするのを望んでいないんだ。


 もし逆の立場だったら……、自分だけなんでもしてもらっていたら心苦しくなるかもしれない。栞のことが好きだから、栞の喜ぶことをしたいって思うだろう。


 俺だって栞が喜んでくれたら嬉しいのだから、栞だってそう思ってもおかしくないはずなのに。そんなことにすら気が付かなかったとは。


「栞」


「うん。なぁに?」


「今日は、一緒に寝てくれる? 俺、栞と一緒に寝たい」


 そしたらきっとすっごく幸せだ。膝枕だけでこれなんだから、栞を抱きしめて寝たらたぶんもっと……。眠れるかどうかは別として、ね。


「うんっ! じゃあ今日も明日も一緒に寝ようね」


 栞はさりげなく明日のことにまで言及する。まぁ、今日一緒に寝れば明日もきっとそうなるだろうから構わないんだけど。


 俺の望みも栞の望みも結局のところ同じようなものなのだ。それをどちらが言い出すかの違いでしかない。となれば、俺ももう少し男らしくしたほうがいいのかもしれない。


 栞に嫌われたくないとか、大事にしたいとか、そういう言葉で誤魔化していたけれど、つまるところ俺がヘタレなだけなんだ。


 急に変われるかと言われると難しいだろうけど、それも少しずつだ。とりあえず手始めに、今の俺のしたいことを伝えてみることにする。


「栞、ちょっと起き上がってもいい?」


「いいけど、膝枕はもういいの?」


「うん。というか、このままじゃ無理だから」


「??」


 栞は疑問を浮かべるが構わない。すぐわかることだから。俺はゆっくりと身体を起こすと栞に寄り添って座り直す。


「栞……」


 栞の頬に手を添えて、自分の方を向かせる。しっとりとした栞の頬の触り心地が良くて、軽く撫でると栞はくすぐったそうに身をよじる。


「んんっ……、くすぐったいよ……」


 でもイヤそうではなくて、嬉しそうだ。じっと目を見つめると、栞も見つめ返してくれる。


「栞、キスしたい」


 俺がそう言えば、栞は一度だけ目をパチクリさせて、笑った。


「もうっ、ここまでしたなら断らなくてもしたらいいのに」


「急にはダメだって言ったのは栞でしょ?」


「さすがにここまでされたら、するんだなってわかるよ? 涼は変なところで律儀なんだから」


 栞はケラケラと笑う。せっかく素直になってみたというのに。


「栞は意外と意地悪だ……」


 少し拗ねてみせると、栞が慌てた。


「あっ、ごめんね。急に素直になった涼が可愛くて、つい……」


「また可愛いって言うし……」


「だって、しょうがないでしょ? 格好良いのと同じくらい可愛いって思っちゃうんだから。それよりキスはもういいのかな〜?」


 ニヤッとした顔で覗き込まれて、なんか悔しい。栞の手の上で転がされてるみたいで。


 俺がむすっとしていると、突然栞が俺の膝に跨った。そのまま肩を掴まれて、ソファへと押し付けられて身動きが取れなくなる。


「えっと……、しお、り?」


「からかってごめんね? あのね、あんなこと言われたら私の方が我慢できなくなるんだから……」


 栞が俺の唇に噛み付いた。


「涼、好き……。格好良いところも、可愛いところも全部好き。大好き。ねぇ、まだ怒ってる?」


 栞の潤んだ瞳に不安の色が浮かぶ。


「怒ってないよ。拗ねたふりしてただけだから」


 俺が本気で栞に怒ることなんてないと思う。でも、拗ねたふりだけで栞はこんなふうになってしまう。


「良かったぁ……。ねぇ、涼?」


「なに?」


「もう一回、したい……」


「しょうがないなぁ。俺も拗ねたりしてごめんね。大好きだよ、栞」


 そう言って優しく口付けをすると、栞も嬉しそうに微笑む。


 ちょっとだけ拗ねたり不安にさせたりしてしまったけど、これで元通り。ただ、理性の方はちょっとやばいかも。


 あれだけ身体を押し付けられれば気になってしまうのも致し方あるまい。どこまでなら我儘になっていいのかわからない以上は慎重にいこうとは思うが……、いつまで保つのやら。


 そんな俺の心配を他所に、栞は満足したのか俺の上から降りた。そしてはにかみながら言うのだ。


「さ、そろそろ晩ご飯の準備、しよっか?」


 ついにこの時がきたらしい。さすがに浮ついた気分でやるわけにはいかないので、気を引き締める。


「うん、頑張るからよろしくね」


「まかせてよ。手取り足取り教えてあげるからね?」


 手取り足取りなんて言われると、やっぱり大丈夫か不安になってくるのだった。

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