第63話 二人で買い物へ

「さて、それじゃお買い物にでも行ってこようかな」


 挨拶のキスを済ませて、落ち着いたところで栞がそう言い出した。


 もしかして一人で行くつもりなのだろうか?


「俺も行くよ」


 俺がそう言うと、予想外だったらしく、栞はパチクリと目を瞬かせる。


「え、涼はゆっくりしててもいいんだよ? 水希さんに頼まれてるし、そういうのは私の役目でしょ?」


 やっぱり……。


 栞は責任感も強いんだろう。母さんに任されて張り切ってるのはわかるんだけどさ。せっかく二人で過ごせるのだから、別行動する意味なんてないだろうに。


「一緒に行くって。俺だって荷物くらいは持てるしさ。着替えてくるからちょっと待っててよ」


「うん……」


 栞の返事を待って、自室へ向かった。着替えのついでに、母さんが置いてったものとやらを確認するつもりでもある。



 部屋に入って机の上を見れば、置いた記憶のない小さい箱が一つ。


 俺の予想した通り、母さんのいらぬお節介。なんというか、まぁそういうものだ。ついでにメモ書きまである。


『もしもの時はちゃんと使うのよ。頑張ってね〜♡ 母より』


 イラッとしてメモ書きはビリビリに破いて捨てた。特に母さんの書いた『♡』が癇に障る。あれだけ準備に手間取ってバタバタしてたくせに、こんなことをする余裕があったとは。呆れてため息まで漏れてしまう。


 ブツも衝動的にゴミ箱へ叩き込もうとして、やめた。


 まぁ、そのうち使うこともあるかもしれないし……? 決して今回どうとか思ってるわけじゃないけど……。


 俺は栞に対してそういう欲求をもっていることをはっきり自覚してしまっている。もちろんそれを目的に栞と付き合ってるわけではない。これはただ俺が栞を好きだから故だ。


 大好きな栞だからもっと触れたいと思うし、関係を先に進めたいとも思う。とは言え、そういうことに対して栞がどう思っているのかわからないうちに、無理矢理になんてことはもちろん考えていない。


 俺は俺自身よりも栞のことが大事だから。栞が俺とそういうことをしてもいい、いや、したいと思ってくれてようやく先に進める。ヘタレなだけかもしれないけど、俺にとっては栞が隣で笑っていてくれることが何よりも優先されるのだ。


 そういうわけで、今はまだその時じゃない。俺が理性を飛ばしてもいけないので、机の一番上の引き出しにしまって鍵をかけた。目に見えるところにあっても余計なことを考えそうだし。


 そしてこの鍵は栞に預かっていてもらおう。もちろん何をしまっているのかは内緒でだ。自分の手の中にあったら簡単に開けることができてしまうから。


 ちょっとだけ変な気分になりかけていたので、パンパンと顔を叩いて煩悩を振り落とす。それから本来の目的の着替えを済ませることに。


 部屋着のままだったので、外に出られる服装へ。スーパーに買い物に行くだけだからそこまで気合を入れる必要はないけれど、栞と並んでも見劣りしない程度にはしておきたい。


 少し悩んだ結果、初デートで栞が選んでくれたズボンに、上は適当なTシャツを着ることに決めた。


 鍵はとりあえずズボンのポケットに放り込んでおく。




 着替えて階下に戻ると、栞はソファに座って待っていた。足を交互に持ち上げてパタパタさせていて、なんだか子供っぽい。手持ち無沙汰なだけなんだろうけど、こういう何気ない姿が見られるのも貴重なことなのかもしれない。


 いつもは俺の部屋に二人でいるか、リビングに栞を残していても、そこには母さんがいるのだから。


 栞は俺が戻ったことに気が付くと、パタパタさせていた足をおろして振り向いた。


「あっ、涼、おかえり。ねぇ、本当に一緒に行くの? 外暑いよ?」


「それならなおさら栞一人で行かせられないでしょ」


「そう? う〜ん、まぁ涼がそこまで言うなら……」


 まだどこか納得していない様子。いつもあれだけべったりなくせに肝心なところで抜けていると言うか。普段の栞なら絶対に一緒に行くと言いそうなものなのに。


「そうだ。出かける前に冷蔵庫の中見ていいかな?」


「うん、もちろん。俺達しかいないんだし、好きに開けていいよ」


 俺がそう答えると、栞はトコトコと冷蔵庫の前まで行き、中身を確認した。


「ありゃ、ほとんどなにもないんだね」


「栞が好きにできるようにって、母さんがあらかた片付けていったんだよ」


 俺も栞の隣に並んで冷蔵庫を覗くと、中身はほぼなにもない。せいぜい作り置きのお茶と調味料、ドレッシング類がある程度だ。これから買い物に行くのだから、そんなの全然構わないけど。


「じゃあ色々買わないとだね。涼がついてきてくれるのは正解だったかも」


「でしょ? それにさ、一人で行くなんて言わないでよ。寂しいじゃん」


 俺がそう言うと栞はハッとして、申し訳なさそうな顔をした。


「あっ……。ごめんね、涼。私、なんか張り切りすぎて空回ってるのかも。そうだよね、せっかくだもんね。できるだけ一緒にいないともったいないよね」


「そういうこと。わかったなら次からはあんなこと言わないでよ?」


「うんっ」


 ようやく理解してくれた栞は嬉しそうに顔をほころばせる。こういう顔をされるとついつい頭を撫でてしまう。そうすると栞は俺に抱きついてきて。


 うん、なんかいつも通りだ。母さんのせいで余計なことを考えてしまったりもしたけど、やっぱり俺達はこんな感じがしっくりくるし落ち着く。たとえ周りからバカップルと呼ばれようとも。


「へへ、さすが涼だね」


「俺が栞と一緒にいたいってだけなんだけどね」


「あんなこと言ったけど、それは私も同じだからね? 今からは何をするのも一緒だからね?」


「う、うん」


 それはそれでどうかと思う。泊まっていくのだし、その……、風呂とかさ。さすがに一緒に入るわけにもいかないだろうに。


 ……もしかして一緒に入りたいとか?


 いやいや、栞もいきなりそこまでのことは考えていないだろう。でも、少しだけ想像してしまって、また変な気分に。と、そこでまだ鍵を渡してなかったことを思い出した。


「そうだ、栞。これ、預かっててくれない?」


 俺はポケットから鍵を取り出して栞に手渡した。受け取った栞は意味がわからないのか、しげしげと鍵を見つめて首を傾げる。


 意味をわかられると俺が困るので、何も言えないのだけど。


「なぁに、これ? なんの鍵?」


「えっと、何も聞かずに持っててくれると助かる、かな。帰る前にでも返してくれたらいいからさ」


「う〜ん。よくわかんないけど、わかったよ」


 栞が持ってきたバッグのポケットに鍵をしまうのを見届けて、ホッと息を吐く。これで俺の理性も少しは保たれるというものだ。


「じゃあそろそろ行こっか」


「うんっ」




 俺達はいつものように手を繋いで家を出た。はずなのに、いつの間にか栞は俺の腕に抱きついていた。あまりに自然だったのでしばらく気付かなかったくらいだ。暑いけど、満面の笑みを浮かべる栞の顔を見れば、そんなことは全く気にならない。


 スーパーへと向かう道中、俺はこの数日で考えていたことを栞に伝えることにした。


「あのさ、栞」


「なぁに〜?」


 相変わらず、ずっとニッコニコの栞。随分と張り切っているみたいだし、水を指すことになるのかもしれないけど。


「栞がご飯を作ってくれるって話だったじゃない?」


「うん、私頑張るから楽しみにしててね?」


「いや、うん。それは楽しみなんだけどさ」


「だけど……? 私が作るの心配……?」


「違う違う! そうじゃなくてね、俺もなにか手伝えないかなって」


 これが俺の考えていたこと。何もできないままで、栞に頼りっきりというのはよくないと思ったんだ。そんなことをずっと続けていたら、俺は栞がいないと何もできないダメなヤツになってしまう。


 勉強だって栞に教えてもらうことが多いし、そのうえ家事まで全部やらせることになったら立つ瀬がない。栞とのことを真剣に考えるなら、無能のままではいられないし、いたくない。


 今までだったらこんなこと考えもしなかったのに。こういうところも、栞と出会ったことで変わってきたことだ。


「涼が? 料理したことないって言ってなかった?」


「そうなんだけど……。ほら、栞に任せっきりっていうのも悪いしさ」


「そんなこと気にしなくてもいいのに。涼のためなら私全然苦じゃないよ?」


 栞ならきっとこう言ってくれると思っていた。ここまでは予想通りだ。


「そう言ってくれるのはすごく嬉しいんだけど、そうじゃなくてね」


「どういうこと?」


「こないだもちょっと話したけどさ、もっと先のこと」


「同棲とか結婚とかって話?」


「そうそう。あれからちょっと色々考えてて。もし一緒に暮らすことになったとして、普段は栞が作ってくれるのは全然構わないんだけど」


「うん」


「でもさ、例えば栞が体調悪くなって動けない時とかに何もできないと自分がイヤだなって。だから少しでもできるようになっておいたほうが良い、と思ってるんだけど……」


 たまに見かける話で、奥さんが体調不良で寝込んでいるのに、自分のご飯の心配しかしない旦那さん、なんてのもいるらしい。


 俺としてはそれはないなって思うんだ。栞が寝込んでしまったのなら、俺は早く良くなってもらうためにどうしたらいいか考えるはず。体調が悪くても食べられて、栄養のあるものを作ってあげたりとか。


 でも、今の俺にはそれができない。いきなりできるようになるとは思えないけど、何もしなければ今のままだ。それはよくない。


 母さんにはこんなこと恥ずかしくて言えたもんじゃないけど、栞になら言えてしまう。栞といる時は普段よりも少しだけ素直になれるから。


 あとは、なんというか二人一緒にキッチンに立つのとか、なんかいいなぁって思ったりもするわけで。


 付き合いだしてまだ日が浅いし、気が早すぎるってことは重々承知なんだけど、こうやって栞とのことばかり考えるようになってしまったのだから仕方がない。


「涼……?」


 栞は足を止めてジトッとした目で見上げてくる。その目は潤みを帯びていて、今にも泣き出してしまいそうで。


 なんかまずかったかな……? やっぱり張り切ってるところに水を指したのが良くなかったとか。


 栞が俺の前に回り込んで、またじっと目を見つめてきて。スッと栞が背伸びをしたかと思ったら──。


「……んんっ?」


 いきなりキスされた。俺の首に腕を回して、ギュッと抱きつきながら。しかも……、長い。顔を離して、息継ぎをしてもう一度。


 唇を必死で押し付けてきて、俺の唇に吸い付いて、ついばまれて、これまでで一番情熱的なキスかもしれない。


 こんな往来の真ん中で。周りには人はいなさそうだけど、でも──。


 俺が困惑していると、栞は少し離れて俺の胸をポコポコと叩く。栞の目尻には涙の雫が浮かんでいた。


「えっと、栞……?」


「もうっ、バカぁ……。いきなりそんなこと言ったらダメなんだよ? 私おかしくなっちゃうじゃん……」


 こんなところでキスするくらいだから、すでになってる──とは言えず。


「ご、ごめん」


 謝ることしかできなかった。でも栞はそんな俺の手をギュッと握ってグイグイ引っ張っていく。


「まったくもう……。少し気を抜くとすぐこれなんだから。もうっ、もうっ。でも……、えへへ……」


 ブツクサと文句を言いながらも、栞の顔は真っ赤でこれ以上ないくらい緩んでいる。その顔を見たら、間違ってなかったんだなって安堵した。


 ただ、さっきのキスで頭がクラクラして、栞も十分俺をおかしくさせることを理解してほしいと思った。

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