お泊り一日目

第62話 二人きりだね?

 アホな母さんのせいで一時的に気まずくなったものの、どうにかこうにか平常運転を取り戻した俺と栞は、その後は普段通りの数日を過ごした。


 その間に起こった出来事といえば、最近さぼり気味だった夏休みの宿題にとどめを刺したことくらいだろうか。


 本当にあと少しというところで止まっていたので、これはあっと言う間に片が付いた。栞に残りの夏休みを目一杯楽しむためになんて言われたら、そりゃあやる気も出るというものだ。


 とは言え、俺達の予定なんてうちでダラダラするくらいなものだけど。それでもこの先気兼ねなく栞とイチャつけ──、いや……、のんびりできるようになるのでこれはこれで良かったと思う。


 そんなわけで、あっという間に例の当日を迎えた。


 *


 今日は朝から母さんがバタバタと忙しなく出かける準備をしている。前日に済ませておけば良いものを、と俺は思うわけだけど、母さんはいつもこうだ。なんというか、勢いだけで生きてるような、そんな人だから。


 父さんはすでに準備を整えてダイニングでコーヒーを飲んでいる。手伝おうにも女性の身支度なんてわからないので待つことしかできないらしい。



 ──ピンポーン。



 俺もリビングのソファに座り、父さんにならって走り回る母さんを呆れながら眺めていると、インターホンが鳴った。


「涼! ちょっと出てくれる?」


 言われるまでもなく俺は腰を上げていた。


 来たのが栞だということはわかりきっていたからだ。朝のうちに俺の両親が出かけるので、栞は午前中にうちに来ることになっていた。


 母さんのせいで出発が遅れて現在10時半、すでに朝というより昼前といった時間になってはいるが。


「はいはい」


 そう適当に返事をしながら玄関に向かいドアを開けると、そこに栞はいなかった。


「おはよう、涼君」


 栞の代わりに立っていたのは栞によく似た大人の女性、文乃さんだった。ニッコリ笑った目元なんて本当に栞そっくりだ。って、これは逆か。親子なんだから、栞が文乃さん似なんだ。


 とにかく、まだ栞は姿を見せない。


「おはようございます、文乃さん。えっと、栞は一緒じゃ……?」


「ふふっ、そんなに焦らなくても車の中にいるわよ。荷物の確認がー、とか言ってたからもうすぐ出てくると思うよ。それよりもご両親はご在宅? できたらご挨拶したいんだけど」


「あー……。いるにはいるんですけど……」


 母さんは相変わらずバタバタしてるし、父さんは栞が来ただけで引っ込んでしまうほどの人見知り。


 どうしたものかと思っていると、二階から母さんが降りてきて、


「涼。私達そろそろ出るから、栞ちゃん来たならあがってもら──って?」


 文乃さんとばったり。


「もしかして、栞ちゃんのお母、様……?」


「はじめまして。栞の母の文乃です。いつも栞がお世話になってます」


 文乃さんが頭を下げると、母さんも余所行きの顔になる。


「これはこれはご丁寧に。私、涼の母の水希といいます。栞ちゃん、とってもいい子なのでお世話なんて。栞ちゃん、うちのバカ息子にはもったいないくらいで。大事な娘さんの彼氏がこんなんで本当にいいんでしょうか……?」


 母さんは母さんでペコペコ頭を下げて。みっともないし、あまり文乃さんの前で俺をけなさないでほしいんだけど。


 それで文乃さんに悪く思われたらどうしてくれるんだ。


「全然大丈夫ですよ。涼君、真面目でいい子じゃないですか。それに栞も最近元気すぎて、涼君を振り回してないか心配で」


「こんなのいくらでも振り回しておけば良いんですよ。本人も嬉しそうにしてるんですから」


 母さんに頭をペシッと叩かれた。


 ……理不尽だ。


 そこからは社交辞令の応酬が始まってしまった。その間に立たされているのがいたたまれなくなった俺は靴を履き、文乃さんの脇をすり抜けて家の外に出た。


 いたたまれなくなったのも事実だが、すぐそこに栞がいるのだから早く会いたいというのが正直なところだ。


 外に出ると、栞の家の車が停まっていた。つい先日乗せてもらったばかりなのですぐにわかる。後部座席を見れば、文乃さんの言葉通りゴソゴソしている栞の姿が。


 俺がコンコンと窓を叩くと栞は振り返り、パァッと表情を明るくしたかと思ったら、慌てた様子でバッグになにやら詰め込んで車を降りてきた。


 栞が手にする荷物はいつもうちに来る時の三倍くらい、いやもっとありそうだ。着替えなんかもあるだろうから当然なんだけど。女の子だし、その他にも色々必要なものはあるのだろう。


 そう思えば母さんが準備に手間取るのも仕方のないことなのかもしれない。


 栞の荷物が重そうだったので、少し強引に受け取ると栞は嬉しそうな顔をした。


「ありがと。おはよ、涼」


「おはよ。栞だと思って玄関開けたら文乃さんだったから驚いたよ」


「ごめんね。荷物が多いから送ってもらったんだけど、どうしても挨拶するって言って、先に行っちゃって。えっと、お母さんは?」


「あそこでうちの母さんと話してるよ」


 俺が顔をそちらに向けると、まだ話は終わっていないようだった。それどころかさっきよりも盛り上がっているような。


 栞の手を取って玄関に向かうと、文乃さんが俺達に気付いた。


「あ、やっと降りてきたのね。栞も来たことだし、私はそろそろお暇しようかしら。涼君、栞のことよろしくね」


 文乃さんは意味ありげに俺にウインクしてみせた。


「は、はい」


 その意味するところは不明だが、栞そっくりの文乃さんのウインクにちょっとだけドキっとしてしまった。これは決して文乃さんにときめいたわけではなく、栞がそうした時の姿を想像したせいだ。


「それじゃ高原さん、またそのうちゆっくりお話しましょうね」


「そうですね。すいません、今日はバタバタしてて……」


「いえいえ、無理に伺ったのは私ですから。じゃあ、栞も頑張ってね。明後日の夕方に迎えに来るから」


 文乃さんは栞の肩をポンポンと叩いて帰っていった。


 文乃さんを見送った後、栞を伴って家に入ると、母さんが栞に封筒を差し出した。


「栞ちゃん、これ食費に使ってね」


「なんで俺じゃなくて栞に渡すんだよ?」


「栞ちゃんの方がしっかりしてるからに決まってるでしょ」


 腑に落ちない。腑に落ちないけども、否定もできないのが悔しい。


 このやり取りを見ていた栞は乾いた笑いをもらしながら封筒を受け取った。


「えっと、ありがとうございます。でもこんなに……?」


 中身をチラッと確認した栞は少し驚いた顔をした。思っていたよりも多かったらしい。


「いいのいいの。私がお願いしたことだしね。もし余るなら、この先二人で遊ぶ時にでも使うといいわ」


「わかりました。大事に使わせてもらいますね」


 そう言う栞に母さんは満足そうに頷いた。


「さて、それじゃ私達もそろそろ出かけようかしら。お父さーん、準備できたわよ!」


 母さんがダイニングに向かって声を上げると、待ちくたびれていた父さんが出てきた。


 栞と父さんがまともに顔を合わせるのはこれで二回目。父さん休みで家にいても、栞が来るといつも隠れちゃうから。


 でも、今日は栞にちゃんと向き合って、更には自分から声をかけた。


「えっと、栞さん。涼のこと、お願いします」


「はいっ。任せてください」


 普段顔すら見せない父さんに俺のことを任されたせいか、栞も張り切っているみたいだ。


 両手を胸の前でグッと握る姿も、うん、可愛い。


 そんな栞と父さんのやりとりを尻目に、母さんが俺にコソッと呟いた。


「あんたのことだから用意してないと思って、例の物、あんたの机の上に置いといたから」


 なんのことかわかったような、わかりたくないような。とりあえず、またアホなこと考えていそうなので無視を決め込んだ。


 後で確認して、予想通りなら栞に見つかる前に隠しておかなければ……。


 そんなこんなで俺の両親も慌ただしく出かけていった。


 家に残されたのは俺と栞の二人だけ。ここから二日間二人きりになる。こないだの母さんの言葉を思い出してしまって心臓が暴れ出す。まったく、余計なことを言ってくれたものだ。


「ねぇ、涼?」


「なに?」


「二人きりだね?」


 栞は小首を傾げながら微笑んで。


 栞も思い出しているのか、嬉しそうな笑顔にわずかな緊張が見える。この空気のままだと、また気まずくなりそうなので、なるべくいつも通りを心がけて栞の手を握った。柔らかく包み込むように。


 小さくて、すべすべで、ちょっとヒンヤリしている栞の手。手ですらこんなにも可愛らしくて愛おしい。こうやって触れていると、少しだけ心が落ち着く気がする。


「そう、だね」


「あのね、とりあえず……、んっ」


 栞は目を閉じて唇を差し出す。


 これは登校日の朝から、なんとなく会ってすぐの儀式になりつつある。俺は栞に応えて、優しく唇を重ねた。


 栞の唇の柔らかい感触と共に幸福感に包まれる。でもやっぱりいつもより心臓がうるさい気がする。


「へへ、改めておはよ、涼」


「うん。おはよ、栞」


 はにかむように笑う栞にドキドキしつつ、最初からこんなんで大丈夫かなと思う俺なのだった。

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