七章 登校日
第49話 登校日の朝 一つ目の約束
──ピンポーン。
我が家のインターホンが鳴る。いつものことだが栞がうちに来たことを知らせるものだ。ただ、いつもと違うのは今が朝であること。それも7時半すぎという早朝だ。
「涼ー? 栞ちゃん来たみたいだけど準備できてるのー?」
「できてるー! 今出るから!」
階下からの母さんの声に応えながら、昨日のうちに中身を準備しておいた学生鞄を手に部屋を出る。
初めて栞とキスを交わした次の日、つまり今日なのだが、俺と栞にとっては少し気合を入れて臨まなければならない一日なのだ。何があるのかと聞かれれば、それはすなわち登校日である。
ついにこの日が来てしまった。
遥と楓さんが今の栞の姿を見た時に驚愕して叫んだのは記憶に新しい。あの二人とはうまくいったわけなのだが、うちのクラスは全部で40人、つまりあと36人の生徒、担任である連城先生を含めれば37人の事情を知らない人間が所属しているわけで、その反応がどうなるのか想像もできない。
栞には平然としてればいいんじゃないか、と話をしているけれど、向こうから騒がれたらその都度対処が必要になる。そう考えると今から心配で胃が痛い思いだ。
まぁ、何があっても俺が栞を守るんだという決意は変わらないわけだが。
昨日の夜、寝る前の電話で俺と栞は今日のことで約束を二つしていた。
一つ目は、今しがた栞が来たことからわかると思うが、一緒に登校しようというものだ。一学期の最後の方は一緒に下校していた俺達だけど、一緒に登校するのは初めてだったりする。
たまたま同じ電車に乗っていたことはあったけれど、それでもその時は学校へは別々に向かった。友達になった後のことで、近くにいるのに声をかけられないのがもどかしくて、放課後が待ち遠しかったのを覚えている。
でも、今日は違う。俺達は二人揃って学校へ、そして教室へと向かう。コソコソするのはもう終わりにするのだ。学校で栞と話せるのが放課後だけなんて寂しすぎるから。
玄関を開けると、また一段と笑顔が眩しくなった栞が立っている。大好きで大事な俺の恋人だ。栞は日に日に明るくなっていき、俺はそんな栞が可愛くて仕方がない。こんな笑顔が見られることがたまらなく嬉しいって思う。
さすがにもう、栞にこういう顔をさせているのが俺だということを疑ったりはしていない。その自信は栞がくれたから。
「おはよっ、涼」
俺の顔を見るなり、栞はニッコリと微笑んで朝の挨拶をしてくれる。
「おはよ、栞」
「制服久しぶりだけど、変じゃないかな……?」
俺が挨拶を返すと、スカートを摘んで、少しだけ不安そうな栞。
そんな顔をしなくても、栞はいつだって可愛いのに。他の人の目から見てどう思うかは知らないし、彼氏としての欲目もあるのだろうけど、少なくとも俺の主観の上ではそうなっている。
それにしても、ここのところずっと私服ばかり見ていたせいか、制服姿がやけに新鮮だ。髪を切ってからの制服姿を見るのは、これが初めてなわけだし。着崩したりせず、きっちりブラウスのボタンを全部止めて、リボンタイも緩んだりしていない。さすがはしっかり者の栞らしい。
制服の着方に余計なアレンジを加えなくとも、栞の可愛らしさは全く損なわれることはない。それどころか清楚さが増して、このままのほうが俺は好みだったりする。
普段はストレートにおろしている髪は、今日は二つ結びのおさげにして肩から前に垂らしている。長い髪は校則で結ぶことになっているのだが、守っている人などほとんどいない。守らなくてもほぼお咎めはないのだけど、そこは栞の真面目さだろう。
髪をおさげにしたことによってあどけない雰囲気が出て、またいつもとは違う魅力がある。女の子というのはメイクやヘアアレンジでイメージがガラッと変わるらしい。まだまだ栞のことを好きになれる余地があることに嬉しくなってしまったり。
「うん、変じゃない。今日も可愛いよ」
栞を玄関の中に招きつつ俺はそう言った。ついつい漏れた俺の本音に栞は顔をほんのりと赤くする。我ながら、よくこんなセリフをサラッと言えるようになったもんだ。半分無意識で口にしていたのだけど。
それもこれも、全部栞が可愛いせいだ。もちろん外見だけじゃなくて中身も含めて、だ。
「そ、そっか、よかったぁ……。あのね、涼も制服姿とっても格好良い、よ?」
「う、うん。ありがと……」
栞の素直な言葉に俺も顔が熱くなる。でも、真っ直ぐ見つめてくる栞から目が離せない。潤むその瞳が何かを訴えているかのようで。
「あの、そのね……、涼……」
栞はそう呟くと、恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。
「うん? どうしたの?」
「えっと、えっとね……、んっ」
栞は俺の胸に手を置き、少しだけ背伸びをして、目を閉じて顔を上げた。身長差がある俺に唇を差し出すような形だ。
靴を履きかけていた俺は思わず静止してしまった。
そこまでされてわからないほど鈍い俺ではない。だって俺には上手くやれなくてもいいと言ったくせに、まるでお手本のようなキス待ち顔なのだから。つまり、栞は『おはようのキス』をご所望というわけだ。
昨日の今日で、大胆になったと言うか……。
昨日もあれから、何度も栞から求められてキスをした。そして栞の蕩けそうな顔を見て、我慢ができなくなった俺からも。お互い初めての刺激に夢中になっていた。最後は我に返って、恥ずかしくなった栞が逃げるように帰ってしまったのだが。
それを忘れたかのように、可愛らしくおねだりをする栞に吸い込まれるように口付けをする。すると栞は「んんっ……」と艶っぽく喉を鳴らして、その声が俺の頭を痺れさせる。触れたのは一瞬のことだが、じんわりと幸福感がわいてきて、心配事も溶かされていくようだ。栞もふにゃりと幸せそうな顔をしてくれる。
そんな顔を見せられると、もっともっとという欲が湧いてきて。
「栞……」
栞の頬に触れると、栞もまだ足りないと言うかのように、また目を閉じる。
本日二度目のキスをして、また見つめ合って……。もう今日はこのままずっとこうしていたいなぁ、なんて思った矢先のことだ。
「涼? 栞ちゃん? まだいるのー? 遅刻するわよー?」
リビングから母さんの声がして、二人でビクッと身体を跳ねさせた。幸いにして声がしただけで、見られてはいないようなのだが心臓には悪い。
いやいや、朝っぱらから、しかも玄関で俺達はいったい何をやっているんだか。昨日だって、見つめ合って、時々キスをして、なんてことをしていたら、あっという間に夕方になっていたし。登校前にこんなことをしていたら、遅刻確定だ。
「わかってる! もう出るところだから!」
「それならいいけど。あっ、言い忘れてたけど、ちょっと二人に話があるから、学校終わったらそのままうちに帰ってらっしゃい。栞ちゃんの分もお昼ご飯用意するから、お母様に伝えておいてくれる?」
話なら今からでも、と思ったけど、スマホの時計を見ると電車の時刻が迫っている。急がなければならないほどではないけど、あまりのんびりしている時間はなさそうだ。
栞に目配せをすると、小さく頷いて俺の代わりに返事をしてくれた。
「わかりました! それじゃ、行ってきますね」
「はいは〜い、いってらっしゃ〜い」
「いってきます!」
俺達はそう言うと玄関を出て、手を繋いで駅へと向かう。
「危なかったね?」
そう言う割に、全然反省していなさそうな栞。
「びっくりしすぎて口から心臓飛び出るかと思ったよ」
「そしたらちゃんと押し込んであげるから安心してね?」
いや、本当に飛び出たらその時点で死んでるんだが……。
「それにしても、今日は朝から、その……、随分と積極的だけど、どうしたの?」
「へへ〜、涼と一緒に登校できるのすごく嬉しいんだもん。本当はね、一学期の間もこうしたかったんだよ?」
やっぱり俺達は考えることが似ているらしい。栞が来る前に俺が考えていたことと同じことを栞は口にした。
「あ〜、それは俺も。今だから言うけど、俺あの頃から栞のことが好きでさ、放課後と帰りだけってのがもどかしくって」
栞が素直に気持ちを伝えてくるので、ついつい俺もつられて素直になってしまう。こんなに自分の気持ちを真っ直ぐ口にできたことなんてなかったはずなのに。
「えっ……! 涼もそんな前から……?」
「ってことは栞もなの?」
「うん。と言っても、あの時の状態じゃ涼と付き合うことなんてできなかったけどねぇ。不安定すぎた自覚あるし。それでも涼のことは大好きだったんだぁ」
つくづく似た者同士だ。好きになった時期すら同じくらいということが判明した。俺達はよほど相性がいいらしい。
「じゃあ、あのタイミングがやっぱりベストだったのかな? 俺、栞が何か大変なものを抱えてるんじゃないかって心配でね、告白しようにもできなくて……。って、ごめん、栞のせいみたいに……。俺が意気地なしだっただけなんだけど。結局栞から言ってもらっちゃったし」
「ううん、そんなことないよ。私のこと待っててくれてたんでしょ?」
「それはまぁ、そうなるのかな?」
「それなら、涼が謝ることないよ。ありがと、私のこと一番に考えてくれて。やっぱり涼は優しいね」
「そうかな……?」
「そうだよっ。ふふっ」
栞はそう言って笑うと、それっきり黙ってしまった。でも、ずっとニコニコと上機嫌で弾むように歩いている。まるで何も心配事がないかのように。
俺も栞が来る前は色々考えて不安だったけど、栞のこの姿を見ていると、なんてことないように思える。一番栞のことが好きだと思うのはこういう瞬間だ。栞が俺を強くしてくれるから。
駅に着いても手は離さず、しっかりとお互いの想いを確かめ合いながら電車に乗り込んだ。
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