第48話 ファーストキス
◆黒羽栞◆
逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと涼の家へと向かう。だって急ぐと、暑くて汗をたくさんかいちゃうじゃない?
でも、どうしても汗はかいちゃうから、家の前についたら念の為に制汗スプレーを使って。涼には絶対に嫌われたくないからちゃんとするんだ。私、ついつい涼にくっついちゃうから、匂いには特に気を使う。気にし過ぎくらいで丁度いいのだ。
風で乱れた髪も鏡でチェックして整えたら、準備完了。笑顔の練習もしとこうかな?
鏡に向かって笑ってみる。人の家の前でこんなことしてたら不審者丸出しだから、周りに誰もいないことは確認済み。
うん、大丈夫。ちゃんと笑えてる。
インターホンのボタンを押しても応答はないけど、最近はいつもこんな感じ。たぶん確認しなくても私が来たってわかってくれて、真っ直ぐ玄関に向かってるんだと思う。
なんかドキドキしてきちゃった。早く出てこないかなぁ。
こんなわずかな時間ですら待ち遠しい。
一分にも満たないくらいで、玄関のドアが開いて、涼が顔を出した。
って、ちょっと待って!
はうぅ……、かっっっこいいよおぉぉ〜〜〜!!
どうしちゃったの、涼?! いやいや、髪型を決めたのは私なんだけど!! 似合うと思ってたよ? 思ってたけどね? まさかここまで変わるなんて!
もうっ、直視できないよぉ……!
とか言いつつ目を逸らしたりしないんだけど。だって、毎日会ってるとは言っても、私達が一緒にいられる時間なんて限られてるんだから。そんなもったいないことできるわけないよ。その間に、この姿をしっかり目に焼き付けとかなきゃ。
彼女フィルターが過分にかかってるのかもしれないけど、涼ってば爽やかイケメンになっちゃってるんだもん。
これは……、学校に行ったらモテモテになっちゃうんじゃない?! ダメだよ? 涼は私のだからね?
「いらっしゃい、栞」
私が一人で内心アワアワしていると、涼が柔らかく目を細めてそう言うの。その笑顔がまたたまらなくて、ドキドキが穏やかに溶かされていく。
それにね、涼が私の名前を呼んでくれる時って、いつもよりずっとずっと優しい声になるんだよ。本人は意識してないんだろうけど、だからこそ大事に想ってくれてるんだなって感じちゃうんだ。
「うんっ、今日も来たよっ」
ついつい声も弾んで。これだけで嬉しくなっちゃう私は、我ながらチョロいなって思う。でもそれを隠したりしないよ。声は勝手に弾んじゃうし、涼のこと大好きだよって、私の全てで伝えたいから。
だからね。
「涼、すっごく格好良くなったよ!」
こういうことはちゃんと伝えるんだ。
「えっと、うん。ありがと……」
私が素直に言うと、涼は恥ずかしがっちゃうんだよね。電話では自分から聞いてきたくせにね。でもね、ちょっと嬉しそうな顔してるのわかってるからね? まったくもう、照れ屋さんなんだからっ。
「ほ、ほら、外暑かったでしょ? あがってよ」
「んっ、お邪魔しまーす」
家の中へと促す涼の後ろ姿を見て、クスリと笑いが漏れた。だってね、後頭部の髪が一束、おかしな感じにピョコンって跳ねてるんだもん。ワックスを使ってセットしてて、前から見たらしっかり整ってるのに。
う〜ん、惜しいっ。でもでも、こういう抜けてるところが可愛いって思うんだ。可愛いって言うと、もっと照れちゃうから言わないけどね。
それに私に見せるために、慣れないワックスを使って頑張って整えてくれたんだって思ったら、もうね?
「あっ、ちょっと待って」
さっさと自分の部屋に行こうとする涼を引き止めた。
「ん? どうしたの?」
「水希さんに挨拶!」
「あぁ……」
もー、こういうことはちゃんとしとかなきゃダメなんだよ? 失礼な子って思われたくないじゃない。だって、ずっと涼と一緒にいるつもりなんだもん。ってことは、いずれ水希さんはお義母さんになるかもしれないんだから。って気が早いかな?
リビングに向かうと、涼も後ろからついてくる。
「水希さん、今日もお邪魔しますね」
「いらっしゃい、栞ちゃん。今日も可愛いわねぇ。本当、涼にはもったいないわぁ」
水希さんには会うたびに可愛いって言われる気がする。最初は私も照れちゃってたんだけど、ちょっとずつ慣れてきた。だから、こんなことも言えちゃうんだ。
「そんなことないです。涼はとっても素敵ですよ」
どっちかというと私に涼がもったいないくらいなのに。だからといって、誰にも渡す気はないんだけどね。
「だってさ、涼。良かったじゃない」
「うるさいな、ほっとけよ……」
ふふっ、また照れてる。
「でもこれで私も安心ね」
「何がだよ?」
「ん〜? 私が元気なうちに孫の顔が見れそうだなぁ、ってね?」
「ばっ……、気が早いって!」
私もだけど、水希さんだって気が早すぎる。私達まだキスもしてないのに。私からはほっぺにしてあげたのに、涼からはしてくれないんだもん。私は私の全部、涼にあげるつもりなのにね。私はこんなに態度で示してるのに、涼の意気地なしっ!
まぁでも、焦ることはない。私達は初めての恋人同士、全部が手探りなんだ。私達は私達のペースでやってけばいい。これからその時間はいくらでもあるんだから。
「ほら、栞。こんなバカなこと言ってるおばさんなんてほっといて、行こう」
「あっ、うん。それじゃ水希さん」
「はいは〜い、ごゆっくり〜」
水希さんから見えなくなったところで私は涼の手に触れる。涼も意図を察してくれて、キュッと手を握ってくれる。私のよりも大きくて、少しだけゴツっとしてる涼の手。自然に指が絡み合い、そのままの涼の部屋へと向かう。
「えへへ」
手を繋いだだけで、自然に笑みが溢れる。
「どうしたの?」
「涼の手、好きだなぁって思って」
「普通の手だと思うけど?」
部屋に入ったところで、繋いでいない方の手を見つめて不思議そうに涼は言う。ベッドに二人で腰を下ろすと、やっぱり私は涼にくっつきたくなって、身体を涼に押し付けた。それでもまだ涼はよくわからないって顔をしている。
この人は本当に鈍いんだから。全部言わないと伝わらないのかな?
「私はね、この手にいっぱい助けられたんだよ。涼と出会うまではね、なーんにも楽しいことも幸せなこともなくって、灰色みたいな世界だったんだぁ……」
私がそう言うと、涼は悲しげに表情を曇らせる。そんなつもりじゃなかったんだけど。
「栞……」
「もう、そんな顔しないでよ。今はそんなことないから安心して?」
涼を好きになってからの世界は明るくて、とっても眩しいんだから。
「うん……」
「縋り付いたのは私なんだけどさ、涼が私の手を取ってくれてから少しずつ変わっていったの。この手が私をあんな世界からから引き上げてくれたんだもん。だからね、この大きくて温かい涼の手が大好きなんだぁ。あっ、もちろん好きなのは手だけじゃないよ? ちゃんと涼のこと、全部大好きだからね?」
これまでの私ならこんなセリフ、恥ずかしくって絶対に言えなかった。でも、涼には言えてしまう。ちゃんと受け止めてくれるってわかってるから。
私が言い終わると、涼に優しく包みこまれた。ただ、涼は少しだけ震えている。
「俺もさ、似たようなこと考えてたんだ」
「涼も?」
「うん。俺も栞に救われた、というか気付かされたから。俺さ……、ずっと自分が空っぽだと思ってたんだよ」
「涼は空っぽなんかじゃ──」
私のことを救ってくれた涼が空っぽなわけがないじゃない。
「うん、今はね。でも栞に話しかけてもらう前まではそうだったんだ。趣味って言えるものもないし、やりたいこともなくって、ただ生きてるだけって感じでさ。口を開いたらそういうことがバレるんじゃないかって不安で、人から逃げて。情けないよな……」
涼はそう言って、自嘲気味に笑った。私は何も言えなくて、涼の言葉の続きを待った。きっとまだ先があるはずだから。それに、涼は今まで私に見せてきたよりも、もっとずっと深いところをさらけ出そうとしてくれてる、そんな気がしたんだ。
「でもね、こないだのデートの最後に撮ってもらった写真を見た時、そうじゃなかったんだって気付いたんだよ。俺にもこんな顔できるんだって」
そういえばそんなことを言っていたような気がする。あの時の私はそこまで深く考えてなくて、いつもの涼と同じだと言ってしまった。
「嬉しかったんだ。栞が好きで、大好きで、大事にしたいって思ったのは、紛れもなく自分の中から出てきてるものだって気付いたから。空っぽだと思ってた俺の心は栞が満たしてくれてたんだって」
その言葉を聞いて、気付けば私は涙を流していた。嬉しくて、今までよりももっと涼のことが愛おしくなって。だって、こんな私が大好きな涼の心を埋めることができていたんだから。
それに、私の涼への想いは重すぎるんじゃないかって思ってた。大事にしてくれているのは感じていたけど、私は涼のことが好きすぎるから。一方が重すぎれば、いつかバランスを崩してしまうんじゃないかって不安だった。
でも違ったんだ。
「ごめん。俺……、重いよね……」
私の涙に気付いた涼は不安そうにそう言う。私は涼の顔が見れなくて、涼の胸に顔を埋めた。
あぁもう……、こんなところまで似てるんだから。
「バカっ……、重いわけないでしょっ。嬉しいよ、そんなに私のことを想ってくれてるんだもん。涼も私と同じだって知ったら、私……、私……」
嬉しすぎて涙が止まらない。言葉はこんなにも出てこないのに、涙だけがとめどなく溢れる。
「良かった……」
涼はそう言うと、私の頭を撫でてくれる。抱きしめられたまま頭を撫でられて、そのまま溶かされてしまいそうになる。
「私……、今ようやくちゃんと涼の彼女になれた気がする」
私の心なんて、もうほとんど涼にさらけ出している。そして今、涼の心の奥に触れられた。今までよりも、より強く涼と繋がれた気がしたんだ。
「ごめん。あんまり弱いところ見せたくなくて、さ」
「ううん、いいの。ちゃんと聞けたから」
それにね、別に涼が弱くたって構わないの。私を救ってくれたのは事実だし、涼のいいところは私がたくさん知ってるんだから。そんなことじゃ私の気持ちは変わらない。
「そっか、ありがと。ねぇ、栞?」
「ん……」
「顔、見せて? 栞の顔、見たい」
頭を撫でてくれていた涼の手が私の頬に触れた。
「や、今顔グチャグチャだもん……。恥ずかしいよ」
ダメだよ、泣き顔なんて絶対可愛くないもん……。
「お願い。俺だって泣いてるし、おあいこでしょ? ね?」
「う〜……、うん……」
涼も泣いてるならと渋々顔を上げた。涼の顔を見ると、柔らかく細められた目から涙が溢れて筋を作っていた。
涼は自分の涙のことは気にせず、私の涙を拭ってくれる。優しい手付きが心地良い。
「栞、大好きだよ」
「私だって涼のこと大好きだもん」
視線が絡み合って、涼のことしか考えられなくなる。あの時と同じだ。未遂で終わってしまったあの時と。でも今のほうがもっと涼のことが好きになってる。
今なら……。
私は自分の心の声に従って目を閉じて、顎を少しだけ上げた。
して、くれるよね……?
目を閉じて待ってる時間がとても長く感じた。胸が切なくキュ〜っと締め付けられるようで、このまま何もされないんじゃないかって不安で。と、思った時……。
ふにっと私の唇に何かが触れた。その瞬間、切なさは消え、甘い幸福感に満たされる。頭の奥が痺れて何も考えられなくなりそうになる。でもそれは一瞬で、すぐ離れていってしまった。
目を開けると、恥ずかしそうに顔を赤くした涼と目が合った。
「えっと……、あってた?」
っていうのは、キスして良かったのかってことの確認なのかな? それならあってるよ。でもね、足りないの。
だから今度は私から涼の唇を奪う。さっきよりも長く、私の存在を涼に刻みつけるように。二度目のキスは涙のせいか、少しだけしょっぱい気がしたけど、それも気持ちの甘さを引き立てるアクセントになって。
どれくらいそうしていただろうか、さすがに息が苦しくなって、顔を離した。
「ぷはっ」
涼にあげちゃった、私のファーストキス。
へへ……、嬉しい……。
「もしかして、栞も息止めてたの?」
「え? うん、そういうもんじゃないの?」
嬉しかったんだけど、途中から少しずつ苦しくなってきて、キスって難しいな、なんて考えてたんだけど……。鼻で息したらくすぐったいでしょ……? 変、だったかな?
「さぁ……、俺も初めてだからよくわかんないよ。でも途中からちょっと苦しくってさ」
私達は目を見合わせて、パチパチと瞬かせた。
私達は同じことを考えていたらしい。そう思ったらなんだかおかしくなって。
「ぷっ……」
思わず吹き出してしまった。
「あ、ひどっ。俺だって必死だったのに……」
「ごめんね? なんか私達、不器用だなって思ったらね」
キスの直後に吹き出して、ムードも余韻もあったもんじゃない。でも、これくらいが今の私達にはちょうどいいのかもしれない。初めて同士、これからゆっくり慣れていけばいい。
「俺としてはもう少し上手くやれたらって思うけど……」
「初めからそんな上手くやられたら不安になるでしょ? 今はこれでいいよ」
「ん、そうだね」
そして私達はまた抱きしめあって、おでこをくっつけてクスクスと笑った。
また更に涼のことが好きになってしまった。もっともっと好きになりたい。大丈夫、涼もきっと同じように思ってくれてるはずだから。涼の腕の中で、私はそんな事を考えていた。
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