その壱

 港町リデは、豊かな海からもたらされる海産物と海洋貿易に支えられ繁栄してきた。

 が、先ごろ隣国オロ・ノードである事件が起きてから、その雲行きが怪しくなっている。

 発端は、賢王と称えられていたオロ・ノード国王の急死。

 その跡目を継いだのは、第二王子のダムマイだった。

 血気盛んなダムマイが即位後初めて行ったことは、宰相である祖父と実母の処刑である。

 時を前後して、海を隔てた島国ヴァウルへの出兵を決定した。

 近海が軍船に埋め尽くされたため、漁や貿易の船は港を出られない。

 結果水揚げは著しく落ち込み、貿易相手国から織物なども入って来なくなった。

 いつもは活気に溢れているリデは、そんな訳でもう長いこと火が消えたように静まり返っていた。

 そんな街では、ある噂が流れていた。

 街一番の商家の主が自ら、戦乱に巻き込まれていないジンソエ国へと赴き、滞っている商いを再開させるらしい、と。

 この話を、ある者は諸手を挙げて賞賛し、他方では眉根をひそめた。

 なぜならこの主は先代の入り婿で、その出自が明かでなかったからである。


      ※    

 

 褐色の肌の男が、足早に街を行く。

 行き先はとある商家。

 彼は、その当主の従者で、名をクァク・ヴァと言った。

 たどり着いた館は、しんと静まりかえっている。

 

「ルフマンド様? 何処に?」


 薄暗い沈黙に向かって主に呼びかけるが、返答はない。

 それをどう受け取ったのか、クァク・ヴァは館の中へと入っていく。

 広い館の一番奥まった部屋に、彼の探す人はいた。

 床に広げられたのは、旅の支度。

 この館の主ルフマンドは、それらを黙々と整えていた。


「ルフマンド様……」

 

 クァク・ヴァが呼びかけても、主はその手を止めることは無い。

 一瞬ためらった後、クァク・ヴァは再び呼びかけた。


「……ディン殿下」


「やめろ。その名はもう捨てた」

 

 ようやくルフマンドは手を止め顔を上げる。

 そこには苦笑になりきらない表情が浮かんでいた。


「まさか本当に行かれるのですか? 何故あなたがそこまでして……」


「私は店の当主として、この状況をどうにかする責任がある。当然のことだ」

 

 今のルフマンドは、家族だけで無く使用人をも養う商家の大黒柱。

 確かにその通りではある。

 しかし、クァク・ヴァは納得がいかないとでも言うように沈黙で応じた。


「どうした? そんな顔をして」


「自分は、あなたがいつの日か国に戻り正道を……」


 クァク・ヴァが口をつぐんだのは、ルフマンドの鋭い視線に気が付いたからである。


「その話はやめろ。私は我が身かわいさに国と民を捨てたんだ。今さら戻る資格はない。それに……」


「それに?」


 クァク・ヴァの問いかけに、かつてのオロ・ノード第一王子ディンことルフマンドは、目を閉じ首を左右に振った。


「弟は一見粗暴に見えるが、理にかなわないことを一番嫌う」


 だから宰相殿達を処刑したのにも何か理由があるはずだ、そうルフマンドはつぶやいた。

 しかしまだ何か言いたげにこちらを見つめるクァク・ヴァに対して、ルフマンドは静かに切り出した。


「そんなことよりも、頼みたいことがある。君の技量を持ってすれば、簡単なことだけれど……」

 

 奥歯に物が挟まったような物言いに、クァク・ヴァはわずかに首をかしげる。

 王子ディン……ルフマンドに仕え始めてこの方、こんなことは一度も無かったからだ。

 

「一体、何でしょう。この私にできることでしたら、何なりとお申し付けください」


 しかし、この言葉を発したことを、他でもないクァク・ヴァ自身が後悔することになるのを、今はまだ知る由もなかった。


      ※  


  翌朝、まだ日が昇らぬうちにクァク・ヴァはネフリットの館から姿を消した。

 主はもちろん、使用人の一人に至るまで、その出立を見た者はいなかった。

 それに遅れること五日、ルフマンドはジンソエに向かい船を出港させた。

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