【12月6日完結】涙、或いは一片の花弁(改訂版)

内藤晴人

 大陸の東の外れにオロ・ノード国はあった。

 元々は自他認める静かな国だ。

 あの哀しい『事件』が起きるまでは。

 今や、国内は大いに乱れていた。


     ※

 

 もっと早くにお互いが歩み寄っていたならば、このようなことにはならなかったのだろうか。


 ところどころに篝火が焚かれた中庭を眺めながら、オロ・ノード国王ダムマイは深々とため息をついた。

 国の全権は、今や彼の手中にある。

 しかし、その国を構成する人々の心を未だ掴めずにいた。

 臣民の心は、彼とは別の人物に寄せられていたからだ。

 至極当然と、彼自身も思っている。

 その人物は、彼とは比べものにならぬくらい学問においても人柄においても優れていたのだから。

 

 彼は再び深くため息をつく。

 その時だった。

 不意に風向きが変わる。

 篝火の煙に混じって、僅かに嫌な臭いが鼻をついた。

 それは、血の臭い。


 ついに自分の気が触れたか。

 それとも、今まで屠ってきた者達が蘇ったか。


 漆黒を見つめながら、彼は身構える。

 腰に帯びた剣の柄を握る手へ力を込めた時、闇の中にゆらりと人陰が浮かび上がった。

 だがその姿は、何かがおかしい。


「何者か?」


 彼の声に、人陰は歩みを止める。

 ややあって、掠れた男の声が彼の耳に届いた。

 

「……殿下………いえ、陛下……」


「我を誰か知りながらここへ来たか。その度胸の褒章として、我自ら手打ちにして……」

 

「……お許し……陛下……私は……貴方の……」

 

 彼の言葉を遮って、侵入者は続ける。

 そして、再び彼に向かい歩みを進める。

 唐突に雲が切れた。

 月明かりが差し込むと、侵入者の姿があらわになる。

 その顔は、彼が見知ったものだった。

 

「お前は……。戻っていたのか? 兄者は……」

 

 侵入者が近付くにつれ、血の臭いが強くなる。

 

「……お願いいたします……私を……私の罪を、お裁き下さい」

 

 手を伸ばせば触れるほどまで侵入者が近付いた時、ようやく違和感に気がついた。

 侵入者には、本来有るべきものが無かった。

 そう、右腕が肘下から欠損し、そこから血が滴り落ちている。

 

「お前ほどの手練が、何故そんな深手を?」

 

 わからない。

 何もかもがすべて。

 混乱する彼の背後から、無数の足音が近づいてくる。


「陛下! ご無事ですか!?」


「曲者! 陛下から離れろ!」

 

 口々に叫びながら、近衛兵たちが雪崩れ込んでくる。

 手にした松明で照らされた侵入者の姿に、だが一同は等しく言葉を失った。

 そこにいたのは、足元に血溜まりを作り立ち尽くす隻腕の男。

 血泥にまみれたその顔を見れば、右目も潰れている。

 その有り様は、この世に這い上がった亡者のようである。

 

「陛下、お下がりくだい! 今、こやつを……」

 

 言葉と共に引き絞られる弓弦の音に、彼は我に返った。

 慌てて侵入者と近衛兵の間に割って入り、大声で叫ぶ。

 

「退け! 射かけてはならぬ! この者はは我が旧知。彼に聞かねばならぬことがある!」

 

 そうだ。

 この者を死なせてはならない。

 この者しか知らぬ『あの人』のことを聞かねばならぬ。

 

 その時、背後で鈍い音がした。

 近衛兵たちは一様に後ずさる。

 見れば、血塗れの侵入者は身体の均衡を失い石畳に崩れ落ちていた。

 

「薬師を呼べ! 早く! この者を死なせてはならぬ!」

 

 叫びながら彼は跪き、豪奢な衣が汚れるのを厭わず侵入者を抱き起こした。

 

「しっかりしろ! 気を確かに持て! 我はお前に聞かねばならぬ。この国の臣民の行く末のために」


 その声が届いたのか、苦しげな息の下で侵入者は僅かに笑みを浮かべる。

 

「……今、何と?」

 

 聞きとがめて、彼は侵入者に問うた。

 

「……さま……やはり、貴方は……正しかった……私は……」

 

 うわ言のように呟くと、侵入者は目を閉じ、がくりと首を折る。

 

「だめだ! 目を開けろ! クァク・ヴァ!」

 

 闇の中に絶叫が吸い込まれていく。

 侵入者を揺さぶる彼の頬には、いつしか一筋、涙が伝い落ちていた。

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