モチさん

尾八原ジュージ

モチさん

 十八歳の夏に実家を飛び出したおれは、紆余曲折を経て物凄くボロボロのアパートに落ち着いた。そのとき、隣の部屋に住んでたのがモチさんだった。なんで彼のことをモチさんと呼び始めたのかは忘れてしまったが、とにかくめちゃくちゃ優しいお兄さんで、食い物は分けてくれるし、古くなった服や家電なんかもくれて、話し相手にもなってくれる。おれはあんまり人間関係が得意な方じゃないのだが、モチさんとは仲良くやれていた。

 おれに対しては優しさの塊みたいなモチさんだけど、たまに様子がおかしくなることがあった。おかしくなったときは、まず隣の部屋からわあぁわあぁと獣みたいな声がし始めるのですぐにわかった。そのうちモチさんはおれの部屋にやってきて、ごめんごめんと言いながら毛羽立った畳の上におれを押し倒し、馬乗りになって首を絞め始める。ごめん、ごめんね、本当にごめん、ごめんなさい。そう繰り返すモチさんは、いつもじゃ考えられないくらい恐い顔をして、両目がぎらぎら光っていた。苦しいなぁ厭だなぁと思っているうちにフワーッと頭の中が白くなって、意識が落ちる。気がつくとモチさんはいなくなっていて、次に会ったときにはもういつもの優しいモチさんなのだった。

 首を絞められるのはもちろん嫌だが、普段のモチさんは本当に優しくて親切で、見た目も結構かっこいいお兄さんで、全然嫌なところがない。おれも金がないもんだからすっかり餌付けされてしまって、そのうちたまに首を絞めたり絞められたりする関係が常態化してしまった。そうやって二年くらいが過ぎたある日、モチさんは突然いなくなった。

 逮捕されたのだ。なんでも人を殺して逃げててたらしく、押入れの中には被害者の骨の一部が入っていたのだとか。

「そんなことするような人には、とても見えませんでした」

 モチさんについて尋ねられるたび、おれは警察にもマスコミにも近所の人たちにも、そんなふうに答えていた。が、内心複雑だった。実は時々首絞められてました、なんて誰にも言えなかった。そんなこと他人に話したって、おれが不愉快な思いをするだけだという気がした。

 そういうわけで今、モチさんが住んでた隣の部屋は空っぽのはず――なんだけど、なぜか時々うるさくなる。あのすっかり聞き慣れてしまったモチさんの「ごめん、ごめんね、本当にごめん、ごめんなさい」と泣きそうになりながら繰り返す声とか、ばたばたと畳を叩いて暴れる音に加えて、「やめろ」とか「離せ」とかいう悲鳴も聞こえる。それがなぜか、おれの声なのだ。あんなふうに抵抗したことなんか一度もなかったはずなのに。

 自分が絞められる声を聞くのは実に最悪な気分だ。でも引っ越す金がないから我慢しているうちに、最近は(もしかして実はおれ、とっくの昔にモチさんに殺されちゃってるんじゃない?)って考えるようになった。いやたぶん違うとは思うんだけど、でも仮にそうだとしても誰も困らねーんだよな――とか考えながら、今日も壁の向こうでだんだん弱くなっていくおれの声を黙って聞いている。

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モチさん 尾八原ジュージ @zi-yon

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