第42話 潮崎の親分2
そのまま柏原まで逃げ帰ろうとしていた三郎太だったが、猪助の動向が気になった。このまま帰ったんじゃガキの使いだ、三郎太は結局番屋の近くへと戻った。
猪助よりも早く戻ったので、彼が帰って来るまでは番屋へは近付かない方が利口だ。少し離れたところで待っていると、ぽつりぽつりと雨が降って来た。
先程の辰吉の断末魔が耳から離れない。もう辰吉は見ても彼とわからない姿になっているだろう。嫌なやつではあったけど、殺すほどのことがあるものか。しかもあんな残忍なやり方で。三郎太はブルっと震えて、両の腕で肩を抱いた。この震えが恐怖によるものなのか、はたまた秋の冷たい雨によるものなのか、自分でもわからなかった。あまりのことに感覚がいろいろ麻痺していた。
なんとかして勝五郎に知らせなければ。そう思った時、背後で猫の鳴き声がした。にゃべだった。
「お前ここで待ってたのか?」
「にゃあ」
「よし、一緒に来い」
三郎太は番屋が見える範囲に誰か人がいないかぐるりと見まわした。すぐ近くに味噌屋があり、そこの主人らしい爺さんが店先で刻み煙草をふかしているのが見えた。雨が降り始めたことに気づいて店の中へと避難しようとしていたのが見えて、三郎太は「味噌屋さん!」と声をかけた。
「はいよ、どれにするかね」
「お味噌を買うわけじゃなくて済まねえんだけど、ちょいと筆を貸して貰えませんか。どうしても柏原に報告したいことがあって」
「いいよ、雨が当たるから店に入えんな」
味噌屋の爺さんは三郎太を店に入れ、紙と筆を渡してくれた。
「どうやって持って行くんだね」
「この猫に持たせようかと」
「じゃあ、こっちの小さい紙にちょろっと書いた方がいいな。うちに印籠があるからそれに入れて猫に持たせりゃいい」
「いや、でも、印籠は」
「なぁに、もう新しいのがあって、古い方は捨ててもいいんだ。誰かの助けになれることの方が嬉しいんだよ」
三郎太は味噌屋の主人の厚意に甘えて、小さい紙に「辰・死」と書いて、最後に「三」の字を丸で囲んだ。これで三郎太からだとわかるだろう。それを小さくたたんで古い印籠に入れ、手拭いを細く裂いたものに通して、にゃべの首に結び付けた。にゃべは迷惑そうにしていたが、三郎太が「これをお嬢さんか悠介のところに届けるんだ」と言うと、納得したように走り出した。
「すんません、今お金持ってないんで何もお礼出来ないんですけど、きっともう一度お礼に来ますから。おいらこれから仕事があるんで失礼しますけど、絶対もう一度来ますから」
「いい、いい。もう味噌屋の爺のことなんか忘れな。それより仕事があるんだろう。頑張って来なさい」
三郎太は気のいい味噌屋の主人に何度も礼を言ってその場を離れた。
ほどなくして猪助が戻って来た。番屋に入ったのを確認して、三郎太も静かに移動する。軒下で耳をそばだてていると、猪助の声が聞こえてきた。
「始末しました」
「そうか。ご苦労」
つまり、もう一人もわかっていたということだ。なんてことだ、あんたたち、この街の治安を守るためにいるんじゃないのか……。これは勝五郎親分の他に佐倉様にも報告しなければならないだろう。
三郎太が悲嘆にくれたまま柏原へ帰ろうとしたその時だった。番屋の引き戸が唐突に開いたのだ。
「おめえ、そこで何やってる」
猪助だった。三郎太の頭に再び辰吉の最期の声が響き渡った。三郎太は飛び上がるくらい驚いたが、そんなことは一切表に出さず、「どうも」と頭を下げた。
「雨が降って来ちまったもんで、ちょいと軒下をお借りしてます」
「そこじゃ寒いだろう。中に入れ。火鉢がある」
「ありがとうございます」
三郎太に聞かれなかったか警戒しているのかもしれない。ここで下手を打ったら、自分も熊の餌だ。
「おめえ、家は近いのか」
「いえ。柏原からお使いを頼まれまして。用は済んだんで、あとは帰るだけと思っていたら雨が降り出しちまったんです」
「まあ、こっちへ来い。火鉢の傍へ」
猪助じゃない方の男が手招きした。やはり同心羽織を着ている。髷も大銀杏だ。小柄な猪助とは対照的に大柄な男だ。
この男と猪助が意味ありげに眼を合わせる。それだけで三郎太の寿命は十年縮まる思いだ。
「雨が上がるまでここに居ればいい。もうすぐ日も暮れるし、何ならここに泊まって行ってもいい。雨の夜の山道は危ないからな」
それこそ殺される! が、断れるような雰囲気ではない。
「すんません、助かります」
助かればいいけどな! むしろ本当に助けてくれ。しかし、ずっとこうして一晩中二人を相手にしていたらきっとボロが出る。どちらかでもいなくなってくれないだろうか。
などと考えていたのが伝わったのか、同心羽織の方が猪助に「あとは任せた」というように目配せをして出て行った。これで少しは気が休まる。この猪助だけなら何とかなるかもしれない。
猪助は七輪で湯を沸かすと、麦湯を湯飲みに入れて手渡してくれた。そして、自分の分を一口啜ると板の間にどっかと腰を下ろした。
「おめえ、家のもんは心配してねえか」
「両親も兄弟もいませんから大丈夫です」
頼む、もう質問しないでくれ、禿げそうだ。
「どっかに御奉公に上がってるんじゃねえのか」
「いえ。長屋の一人住まいです」
三郎太は適当な事を言って誤魔化そうかとも思ったが、話の辻褄が合わなくなるのを恐れて正確なところを話した。肝心なところだけぼかせばいい。
「お使いって言ったな。奉公人じゃないなら、一体誰のお使いだ」
ヤバい。誰のと言われても。勝五郎親分とは言えねえ。
「あ、その、文を届けに」
「文? 誰に?」
「いや、それはおいらの口からは……」
絶体絶命である。あっという間に詰んでしまった。
だが、猪助の方で勝手に想像したらしい。
「ほう、なるほど。手活けの花か」
「そんなところです」
いや、どんなところだよ!
「この雨は明日まで止みそうにねえな」
ほんとかよ。おいらは一刻も早くここを脱出してえんだが。
「こりゃあ、おめえ今日は帰れねえな。よし、飯を炊くからおめえちょっと手伝え。一緒に食おう」
「いえ、おいらは雨宿りさせていただいてる身ですから。お手伝いはさせていただきますが、飯までご馳走になるわけには」
「まあいいじゃねえか、堅いこと言うな。いつ最後の飯になるかわかんねえんだからよ」
最後の飯だって? やっぱりおいらは殺されるんだ。しかもあの熊に食われて。って、おいらが飯になるんじゃねえかよ!
「明日は柏原に帰るんだろ。ちゃんと食っておけ。残ったら握り飯にしていいぞ」
「へ、へい。ありがとうございます。親分さんにご親切にしていただいて本当に助かりました」
助かりてえよ! おいらの人生これからなんだよ!
「なぁに、いいってことよ。俺は善人には優しいんだ。その代わり悪党には容赦しねえ」
うんうん、熊に食わせるんだよな、知ってる、おいら見た。だけど悠一郎さんは悪党なんかじゃなかったぞ。
いろいろ思うところはあるが、殺されるわけにはいかないので、三郎太はひたすら愛想笑いを顔にへばりつかせて黙っているしかなかった。
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