第九章 辰吉
第34話 辰吉1
翌日、奈津の稽古について行った悠介は、町がいつもと違う雰囲気になっていることに気が付いた。何がどう違うのかはよくわからないが、自分がじろじろ見られているような錯覚に陥っていた。
ともかく奈津を白里師匠のところへ送り届け、自分は徳屋へ顔を出す。
「おお、悠介来たか」
徳兵衛が手招きすると、周りの視線が突き刺さる。
「どうしたんですか。なんだかあたしはやたらと見られているような気がするんですけど」
「そりゃあ仕方ないだろう。みんなお前さんを見に来てるんだ。お茶を買うのなんかそのついでだろう」
「あたしなんか見たって仕方ないのに」
「絵師が子供で、しかも女物の着物を着てる男の子だから珍しいんだろう。そのうちに飽きるさ。それより悠介、お前さんは大丈夫かい? 悠一郎さんを看取ったんだろう?」
死に方が死に方だけに、徳兵衛は心配していたようだ。しかも悠一郎が悠介の父だということを知っている数少ない人間の一人である。
「ええ、でもまあ、親の死に目に会えただけでも良しとします。そう考えるとあたしは両親の死に目に会ってますから幸せな方かもしれません。あ、そうそう」
悠介は思い出したように懐から一枚の紙を出した。
「あたしは下手人と鉢合わせちまったんですよ。これがその男です。見たことありませんかね」
紙には悠介の描いた似顔絵があった。徳兵衛は紙を受け取ると「見たことはあるんだが、どこの誰かまではわからんなぁ」と首をひねった。
「そうですよねぇ。それじゃあたしはチョイとこの近くで聞き込んできますよ」
悠介は徳兵衛から似顔絵を受け取って、徳屋を出た。
しばらく聞き込んで回ったが、状況は芳しくなかった。早く見つけないと奈津の稽古が終わってしまう。そうしたら佐倉の家に帰らなければならないのだ。
ふと悠介は自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。キョロキョロしていると、背後から「よお、悠介じゃねえか」と肩を叩かれた。
振り返ると青鷺が……いや、三郎太が立っていた。一体何を食って育ったらこんなふうにひょろりと牛蒡のように丈が出るのだろう。自分もあと五年もして今の三郎太と同じ年になったら丈も伸びているのだろうか、などと悠介は明後日のことを考えた。
「こんなところで何してるんでぃ」
「ちょうどよかった。三郎太の兄さん、この人知りませんかねぇ」
「ん? どれどれ?」
悠介は三郎太に似顔絵を見せた。すると、それまで見られなかった表情が彼に浮かんだのである。
「こいつぁたまげた。驚き桃の木山椒の木、白木に狸に潮崎ってなもんだ」
「ご存じなんですか?」
「知ってるも何も、コイツぁ有名人だぜ。おいらより三つ年上の十八歳で
間違いない、その辰吉だ。
「それです。どこに住んでいるかご存じないですか」
「うーん、それは知らねえんだ。柏原と楢岡をよく往復してるから、もしかしたら楢岡に住んでるかもしれねえ。なにしろ賭場に出入りしていて、いつも金がないって言ってる。だけど最近になって大金が入ったらしくて、また賭場に出入りしてるって聞いたぜ」
「兄さん随分詳しいですね。もしかして知り合いですか」
三郎太は大袈裟に顔の前で手を振った。
「冗談言っちゃいけねえ。おいらは鋳掛屋だからね。あっちこっちで商売してるし、鋳掛けてる間はお喋りとかするからよ。いろんな話が耳に入って来るんだ」
なるほど、三郎太もある意味情報屋というわけだ。
「辰吉さんて人はどんな人なんですか」
「あいつは評判の鼻つまみ者さ。小さい頃から盗み
「でも実際強いんじゃないんですか」
「あいつにも天敵がいる」
「熊くらいしかいなさそうですけどね」
悠介が肩を竦めると、三郎太はグッと顔を寄せてきた。
「惜しい!」
「え?」
「熊より強えやつだ」
「そんなのがいるんですか」
「おめえ、熊殺しの
「あたしはほんの夏頃まで柏華楼に住んでたんですよ。遊女の子なんです。柏華楼から一歩も出たことがないまま育っちまったんで、巷のことはよく知らないんですよ」
三郎太は「あちゃー」と平手で自分の頭をぺちっと叩いた。こんな事をしていたら禿げそうである。
「そりゃー知らなくても仕方ねえや」
そこは柏華楼に住んでいたことに驚くところなのだが、三郎太はそんなことは気にしないらしい。
「猟師の旦那でさ、ちゃんと鉄砲は持ち歩いてるんだが、素手で熊を倒したことがあるらしいぜ。辰吉の野郎、そうとは知らずに粋がって腕相撲を申し込んだらしい。ところがどっこい、相手は熊を素手で倒すやつだぜ、当然秒殺よ。それ以来梧桐の旦那には頭が上がらねえらしい」
さすが鋳掛屋はいろいろ知っている。それは三郎太の人柄もあるのだろう、彼が相手だといろいろ話しこんでしまう。
悠介は三郎太に礼を言うと大急ぎで奈津のところに戻った。佐倉の家に帰る途中にその話をすると、奈津は考え込んでしまった。
「とりあえず夜にでも父に聞いてみます。その辰吉のことも熊殺しの梧桐さんのことも知っているんじゃないかしら」
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