第25話 転機3

 それからしばらくは何事もなく過ぎた。

 相変わらず佐倉は忙しく、奈津は稽古に励み、御隠居様は徳兵衛と楽しくやっている。

 お内儀は謎が多く、昼間はいったい何をしているのかわからなかったが、最近ようやく部屋でなにやら書き物をしているらしいということを知った。

 彼女はあまり自分のことを話したがらないので気づかなかったが、佐倉の仕事を手伝っているらしい。何かの書状を書きつけたり、手紙をしたためたり、帳面もつけているようだ。お内儀の字は大変美しく、悠介にくれた筆にもこだわっていたのにも頷けた。

 ふと、悠介は思った。佐倉の仕事は立派だ。自分の知っている限りでは、地域の人達の間で起こる揉め事を一手に引き受け、みんなが納得する形で収めている。

 もっと大きな――潮崎のような街ならば同心の旦那や岡っ引きがいると聞いたことがある。だがここ柏原や上流の木槿山のような小さな町では、その仕事を大名主がやる。柏原では佐倉が、木槿山では柳澤様がその仕事をやることになっている。

 木槿山と柏原の間にある漆谷のような本当に小さな町になると、近隣の大きな町の世話になる。漆谷なら木槿山の柳澤様、楢岡なら潮崎の船戸様……いや、あそこには町役人がいたか。

 それらの専門的な仕事を佐倉が一人で引き受けているのは大変だろう。いくらお内儀が事務方の仕事をやっていると言っても、協力者なしには難しい。御隠居様の頃はそれで良かったかもしれないが、意図して悪事を働く者の手口が巧妙化して来たら一人では手も足も出まい。自分に手伝えることはないのだろうか。

 と、そこまで来て悠介はあることに気づいた。佐倉の手足として働くことこそが、恩返しになるではないか。

 下男として働いていれば、誰にも怪しまれずに街に溶け込み、いろいろな情報を仕入れてくることができる。徳兵衛のところへは高級茶を求めて手の届かないような裕福層の人だって来るし、安い茶を買っていく近所の一般人もいる。そこへ絵師としてすでに入り込んでいるのだ、この環境を使わない手はない。

 ――だが、旦那様が許してくださるだろうか。

 それと奈津だ。彼女は悠介を相棒にしたいと言っていた。そっちが難しくなければ両立できるのだが。


 神無月の中頃、悠介はまたお内儀に呼ばれた。ここに世話になって既に四月よつきが経つにもかかわらず、未だ悠介はお内儀の前では緊張してしまう。

 だが、出かけるから荷物持ちをして欲しいというだけの用事だったので、彼は少々ホッとした。体を動かしてさえいれば頭は使わなくていいから楽だ。

 お内儀と二人でお出かけは初めてである。緊張しつつも「どちらへ?」と訊いてみると、呆気ないほど悠介への親しみを込めた顔で「天神屋です」と言った。天神屋といえば母や自分に嫌味を言っていたお華が嫁いだ先ではないか。顔を合わせなければいいが。

 天神屋は柏原で一番の呉服問屋である。数年前に主人が隠居して、まだ三十そこそこの若旦那が店を継いだと聞いている。とはいえ、この若旦那はお華を身請けした後も遊んでばかりであまり仕事をしない事で有名だが。

 代わりと言ってはなんだが、このお店には彦左衛門という四十過ぎの番頭がいる。この男は昔からここに奉公しているらしく、一体何年勤めているのかわからないが、若旦那よりずっとお店のことをよく知っているようだ。

 天神屋の暖簾をくぐると、彦左衛門が「これはこれは佐倉様の奥方様、ようこそいらっしゃいました。例のお品物でしたらご用意ができております」と手もみをしながらやって来た。

 彦左衛門が広げた着物は蘇芳色が目に鮮やかな江戸小紋で、牡丹鼠の帯と茄子紺の帯締めが添えられていた。

「うわぁ、綺麗ですね」

 つい、うっとりと声が出てしまった悠介を見て、彦左衛門が笑顔を向けた。

「徳屋さんの茶袋絵師の悠介さんでございますね。さすが絵師だけあって、審美眼に優れておいでです」

「これは奈津の着物なのです。これからこの着物に合うかんざしを選びに行くので悠介について来てもらったのですよ」

 お内儀がとんでもない発言をすると、横から彦左衛門が「それはいい考えでございます」と合いの手を入れた。

 どうやら責任重大である。悠介はこの時になって初めて、自分が連れて来られた本当の目的を知ったと言っても過言ではなかった。

 それからこの着物と帯を大切に風呂敷で包み、近くの小間物屋へ行った。小間物屋では蘇芳色のギヤマンでできた玉簪を見つけ、なんとか責任を果たした。

 そのときお内儀が思いがけないことを言ったのだ。

「奈津は神無月の真ん中に生まれたのですよ。そのお祝いに着物を新調したのです」

「えっ、あたしもそうなんですよ。お嬢さんと一緒だ」

「それならお前も天神屋さんで着物の一枚でも作れば良かった。今からもう一度戻りましょうか」

「とんでもない! 下男にそんな勿体ない。あたしは文箱をいただいてますから、これ以上いただいたのでは罰が当たります」

 それでも「お前はわたくしの息子のようなものです」というお内儀に押し切られ、悠介の希望で古着屋へと足を運び、女物の古着を三着も買ってもらうことになった。

 だが、何よりも悠介が嬉しかったのはお内儀の「お前はわたくしの息子」という言葉だった。

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