第7話 奈津4

 それからすぐに彼女は面会の支度を取り付けたが、肝心の主人が出かけている。半刻ほどで戻るというので、それまで先程の濡れ縁で待つことになった。ここは中庭に面していて気持ちがいい。

 彼女は先程よりもさらに砕けた口調で話しかけてきた。

「今までどこに住んでいたの?」

「柏華楼っていう女郎宿ですよ。あたしの母は稼ぎ頭とまでは言わないけれど、二番目に人気の女郎だったんです」

 彼女は首を傾げた。

「女郎? 女郎とは何ですか? 聞いたことが無いのだけれど」

 十歳そこらの女の子だ、知らなくて当然だろう。もちろん柏華楼にもこれくらいの女の子はいた。いや、五つくらいから禿かむろをやっている子もいたくらいだ。彼女たちだって女郎という言葉を知っていて柏華楼に来たわけではない、入ってから知ったのだ。お姉さんたちに付いて客あしらいを学び、いずれは自分がお姉さんという立場になって小さい子に教えることになるのだろう。悠介は、掃除、洗濯、水汲みなどの雑用に加えて、膳の上げ下げなどもやっていたため、お姉さんたちの仕事の内容も知っている。だが、何も知らない彼女にそこまで教えるわけにはいかない。

「そうさねぇ。それはお嬢さんのお父上の許可をいただかないと詳しくは話せませんねぇ。いっそお父上から聞いた方がいいかもしれません。あたしは上手く説明できる気がしませんね」

「いいの。悠介さんの言葉で聞きたいのです」

 思ったより頑固な娘だ。

「一言で言えば、春をひさぐ女ですよ」

「春をひさぐ? ますますわかりません」

「じゃあ、これならわかるでしょう。体を売る女です」

 彼女は目をまん丸くした。それはそうだろう。ただし意味を正しく理解したかどうかは別問題だ。

「なるほど、やっとわかりました。よく借金のカタや口減らしのために幼い女の子が奉公という名目で売られて行くあれですね。殿方に体を弄ばれると聞いています。体を売ることを『春をひさぐ』というのですね」

 ――知ってるんじゃないか、しかも正しく――。

「そう。そこで育ったんですよ。母は花柳病にかかっちまいましてね、昨日あたしをおいて逝っちまいました。あたしも特にこの世に未練があるわけじゃないんでね。ついて行きたいところですが、逝き方が分からないときたもんです」

「いけません」

 思いがけず彼女の口調は強かった。

「悠介さんはわたしの友人となったのです。どんな理由があろうと、わたしの友人を逝かせるわけにはまいりません」

「友人か。あたしは友人の名前すら知りません」

 彼女はハッとしたように小紋の袖で口元を押さえた。これは彼女の癖なのかもしれない。

「ごめんなさい、わたし、悠介さんの名前を聞いたのに自分で名乗っていませんでした。奈津です。奈津と申します」

「奈津……」

 悠介は繰り返した。そして微笑んだ。

「どうされたのです? わたしの名前はおかしいですか」

「いや、そうじゃなくてね」

 今度はにっこりと笑顔を作った。嬉しかったのだ。

「あたしの初めての友人なんですよ。初めて友人の名を呼んだことが嬉しかったんです」

 奈津は一瞬何を言われているのかわからなかった。だが、彼の生い立ちを考えるとなんとなく想像できる。女郎宿で生まれ、そこで育ち、廓から外に出たことが無い。女郎のお姉さんたちやお客さんたちとしか交流が無かったのだろう。だから話し方も考え方も少し大人びているのだ。奈津は少し悠介を不憫に思った。

 ふと、悠介が懐から夏みかんを出した。

「これね、朝、廓を出る時、よく面倒を見てくれたお姉さんがお餞別にってくれたんですよ。夏みかん。奈津って聞いたら思い出した」

「夏みかんをお餞別に?」

 悠介は頷いた。

「お客さんからのいただきものだって言ってたけど。お姉さん、最後の最後まであたしの心配してくれてね。いい人でしたよ。一緒にどうです、友人になった記念に。実はさっきの猫を追いかけて喉がカラカラなんです」

 真面目に話を聞いていた奈津も肩の力が抜けてしまったようで、クスクスと笑いだした。それを見て悠介は夏みかんの皮を剝き、半分に割って彼女に差し出した。彼女はためらうことなくそれを受け取り、二人で仲良く半分ずつ食べた。

「兄弟の契りみたいですねぇ。桃の下じゃあないけれど」

「中国の英雄のお話ですね。名はなんだったかしら」

「劉備・関羽・張飛の三人が兄弟の誓いをするお話ですね。確か三国志演義です」

 夏みかんを食べながらポツポツと話す。竹林から吹いてくる風は温度を吸い取っていて心地良い。

「悠介さんて不思議な人だわ。廓から出たことないのに学があるんですね」

「出たことが無いからですよ。お金持ちの旦那方が柏華楼にいらっしゃる。待ち時間があるとあたしが話し相手をさせていただく。旦那方は学があるから、いろんなことを教えて下さるんですよ。その代わりあたしは普通の子供がどんなことをして遊ぶのか知らないんです」

 淡々と話す悠介を見て、奈津はもう一度「不思議な人」と繰り返した。

 夏みかんを食べ終えるころ、佐倉の主人が帰って来たとお内儀かみが伝えに来た。

「わたしも同席して構いませんか」

「そりゃあ構いませんけど。なぜです?」

 奈津は当然とばかりにまっすぐ悠介を見てきっぱりと言った。

「友人の生活に関わることですから」

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