第6話 奈津3

 悠介が慌てて振り返ると、同い年くらいの女の子と目が合った。濡れ縁に立つ彼女は柏華楼で見たどの女の子よりも整った顔立ちをしており、その上服装も品があった。意志の強そうな目で悠介をじっと見つめていた彼女の手には、彼の扇子が握られていた。

 どうしよう、自分はどう考えても不審な侵入者だ。ここで彼女に大声を出されたらおしまいだ。下手に動くと騒がれる可能性がある。

 仕方なく悠介はそのままじっと立っていた。

 ふいに彼女が口を開いた。

「あなた、誰?」

 鈴の音のような声で彼女は聞いた。悠介よりはるかに落ち着き払っていた。

 悠介は名乗るよりも先に、勝手に庭に入ったことを謝るべきだと思った。

「勝手にお屋敷に入った無礼を許しておくんなさい。あたしは宝物にしていた大切な扇子を猫にとられちまって、それを追いかけてここまで入っちまったんです。扇子だけ取り返したらさっさと出て行きますんで、堪忍しておくんなさいね」

「あなた、誰?」

 彼女はもう一度聞いた。

「申し遅れました。あたしは悠介と申します。そのお手にお持ちの扇子が猫にとられたあたしの扇子だと思うんですが、どこで手に入れなすったんです?」

 彼女は質問には答えず、じっと悠介を見つめた。見つめたというよりは、頭のてっぺんから足の先まで、じっくりとなめるように検分したという感じだ。

 悠介は黙って待っていた。無駄口は身を滅ぼすと茶問屋の御隠居様が言っていたのを思い出したからだ。今考えると柏華楼の上客はみんな教養があり、悠介が生きていくために必要なことは全て彼らから教わったと言っても過言ではなかった。

「これ、開いていいですか」

 唐突に彼女が言った。ぼんやりしていて、扇子のことを言っているのだと気づくのに一瞬遅れてしまった。

「よござんすよ」

 悠介はその場から一歩も動かずに言った。迂闊に近寄ったりしていはいけない事も廓で学んでいた。

 彼女は悠介の返事に一瞬怪訝な顔を見せたが、静かに扇子を開いた。

「あら、綺麗。これは……みかん?」

「いえ。柚子ですね。珍しい柄なんで大切にしてるんですよ」

 それまで怪しいものを見るような目つきだった彼女が、急に表情をやわらげた。口元に微笑みを湛えた彼女は、大輪の牡丹が咲いたように華やかな印象になった。

「悠介さんだったわね。こちらへいらっしゃいな」

 彼女はそう言って濡れ縁の端に座ると、その横をてのひらでポンポンと軽く叩いた。そこに座れということらしい。

 悠介は彼女を驚かせないようにゆっくりと近付いて「失礼いたします」と濡れ縁にそっと腰かけた。

「あなた、どちらからいらしたの?」

 雰囲気が砕けた。それでも言葉遣いや立ち居振る舞いに品のあるところを見ると、彼女は佐倉様のお嬢さんなのだろうか。

「生まれも育ちも柏原ですよ」

「そうなの? なんだか話し言葉も雰囲気もその辺の男の子とはずいぶんと違う感じがして。流れてきた人なのかと思ったわ」

 彼女は濡れ縁に腰かけた悠介のそばできちんと正座をすると、もう一度しげしげと彼の様相を見た。女ものの着物、色気のある佇まい、どこから見ても柏原の――いや、柿ノ木川の郷の一般的な男の子のそれではない。 

「うーん、まあ流れて来たと言えば流れて来たんでしょうねぇ」

 彼女は小紋の袖を口元に当ててクスクスと笑った。

「面白い人。生まれも育ちも柏原なのに流れて来ただなんて」

 実際おかしなことを言っている自覚はある。悠介も思わずつられて笑った。

「今はどこに住んでいるの? この近く?」

 さらに彼女の言葉が砕けた。

「今ですか。今は宿なしですねぇ。今朝出て来たばかりなものでね」

「出て来たですって? お母上様はどうなさってるの?」

「昨日死んだんです。病でね。父は生まれたときからいませんでしたしね。今じゃ天涯孤独の身なんですよ」

 思わぬ展開に彼女は目を真ん丸に見開いたまま固まってしまった。

「えっ、じゃああなた今日からどうするの?」

「さあねぇ。あたしは世間てもんを知らない環境で育っちまったんでね。おまんまの食べ方すらわからない。いえね、おまんまは作れるんですよ。ただ買い物をしたことが無いんです。お金の使い道もわからない。すぐに死んじまうかもしれない。そうそう、住むところも何も決めていないなら佐倉様のところに相談に行けってお芳さんて人から教えていただいたんだ。佐倉様はこの辺にお住まいだと思うんですけど、お嬢さんご存じありませんかねぇ」

 それまで呆気にとられて悠介の話を聞いていた彼女は、一度口元をキリッと引き結んでから再び口を開いた。

「ここが佐倉の屋敷です」

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