第九部 主婦、後輩と向き合う
第18話 主婦、不倫相手に宣言される
「ねえ、今、一階に営業部の深山さんって子がきてるみたいなんだけど。貴女に会いに」
「……え?」
それを聞いた瞬間、私は一階の受付へ走り出していた。
春翔と同様に、茉莉奈に対しても弁護士を通じて慰謝料を請求している。
その額は200万円。不倫の慰謝料としては妥当な額だ。
私に何の用?
慰謝料の撤回を要求される、とか?
しかし、弁護士の話では茉莉奈はすぐに慰謝料に納得したと言っていた。
一括での支払いは厳しく、分割になってしまったけれど。
受付へ行くと、茉莉奈が背筋を伸ばして立っていた。
目が合うと、小走りで駆け寄ってくる。
「りっくん……いや、凛香さん」
「……なに?」
「今日はいきなりきて、ごめんなさい。どうしても伝えたいことがあって」
茉莉奈の眼差しは真っ直ぐだ。
よくも悪くも、純粋な子なのだろうと思う。
「本当に、ごめんなさい!」
フロア中に響くほどの大声で謝罪し、茉莉奈は深々と頭を下げた。
やめてよ、なんて言えないほど真剣な顔をしている。
「私、あれからいろいろ考えたんです。私がしちゃったことも、りっくんのことも」
「……うん」
「正直、最初は頭がぐちゃぐちゃでした。あんなに好きだったのに、全部嘘だったなんて」
ちく、と胸が痛む。
後悔はしていない。けれど、私は茉莉奈の本気の恋心を踏みにじったのだ。
もし私がりっくんとして茉莉奈を惚れさせていなければ、茉莉奈は本気の謝罪なんてしなかっただろう。
そういう意味で、茉莉奈は不倫自体を心底反省しているわけじゃないのかもしれない。
だけど、今目の前にいる茉莉奈は、本気で謝っている。
「でも、いろいろ考えた結果、やっぱり私、りっくんが好きだって思ったんです」
「りっくんなんて、いないのに?」
「はい。でも、凛香さんはいる。だから今日はりっくんじゃなくて、凛香さんに会って、気持ちを確かめようと思って」
一歩、茉莉奈が近づいてきた。
思わず私が一歩下がると、今度は茉莉奈が二歩近づいてくる。
「私、慰謝料、ちゃんと自分で全部支払います。だから……だから、払い終わったら、私と友達になってください!」
「え?」
「今度は私が、絶対、あなたのことを惚れさせてみせますから!」
あなた、が指しているのが今の私なのか男装姿の私なのかは、正直よく分からない。
でも、茉莉奈が本気なことだけは分かる。
「あなたが何を考えていたのだとしても、一緒に過ごした時間は嘘じゃないし、私が幸せだったって事実は変わらない」
茉莉奈の瞳がだんだんと潤んでいく。でも、茉莉奈は必死に泣くのを我慢している。
「次は、慰謝料を全部払い終わってから、きます」
茉莉奈はそう言うと、出口に向かって歩き始めた。
そして最後に、一度だけ振り向く。
「あなたが好きになっちゃうくらい、いい女になりますから!」
そう宣言し、茉莉奈は出ていってしまった。
すごいな。
あれは私の男装姿で、しかも、最後はかなりきついことを言ったつもり。
なのに、それでもやっぱり、私が好きだなんて。
「ちょっと、惚れさせ過ぎちゃいましたね?」
急に望月くんの声が聞こえてきて、私は慌てて振り返った。
「会いにきちゃいました」
「……営業部、どうなってるの?」
「外回りついで、ってことで」
スマホで時間を確認する。
もうすぐ昼休みだ。望月くんは、また昼休みを狙ったのかもしれない。
「で、あの子のこと、どうするんです?」
「どうって……」
「会うんですか?」
正直、すぐに答えは出ない。
元夫の不倫相手となんて二度と会いたくない。
けれど、茉莉奈という個人に対し、嫌悪や憎悪以外の感情が芽生え始めているのも事実だ。
「もしかして、ライバル登場ですか?」
望月くんは分かりやすく溜息を吐くと、じっと私を見つめた。
「凛香さん。今日は、デートの誘いにきました。もう、堂々と誘ってもいいですよね?」
にっこりと笑って、望月くんが手を差し出してくる。
頷いて、私はそっとその手を握った。
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