第17話 主婦、家を出る

「よし、これで全部かな」


 家中の部屋を歩き回って、残っている荷物がないかを確認する。

 この家には、私の痕跡はゴミすら残したくない。


 離婚届を出して数日はビジネスホテルに泊まり、その後はウィークリーマンションに移った。

 今は、絶賛家探し中だ。


「あと三十分くらいか」


 引っ越し業者を呼んでいるから、まとめた荷物を運んでもらう予定だ。

 これでもう、ここには二度とこない。


「もっと早く予約できたらよかったんだけど」


 今は引っ越し業者も忙しくて、即日予約することはできなかったのだ。

 今日は水曜日、平日のど真ん中。

 春翔がいない間に引っ越したい私にとっては、都合のいい曜日である。


「新しい家、インテリアとかどうしようかな」


 気分を変えるためにも、今の家と雰囲気を変えたい。

 業者がくるまでの間、家具の通販サイトでも見ようか、と思ったところで、いきなり玄関の扉が開いた。


「凛香!」


 春翔の声だ。

 どうしようか、なんて考える暇もなく、春翔はリビングにやってきた。


 最後に会った時と比べ、春翔はだいぶやつれている。

 顔色も悪く、一目で寝不足なのが分かるほどクマも濃い。


「よかった、会えた……! 家の電気がついているのが見えて、もしかしたらって……!」

「仕事中、わざわざ確認してたの?」

「……凛香に会いたかったから」


 もし今が新婚当初なら、私は飛び跳ねて喜んだかもしれない。

 でも、離婚した元旦那にこんなことを言われたところで、嬉しいはずがない。


「何の用? 用があるなら、弁護士を通してって言ったはずだけど」


 慰謝料や財産分与の件に関しては、弁護士に頼んでいる。

 これ以上、春翔や茉莉奈と顔を合わせるのが嫌だったからだ。


「……俺たち、もう一回だけやり直せないか?」

「は?」

「凛香と別れてから、改めていろいろ考えたんだ。それで、もう二度と会えないって思ったら、耐えられなくて」

「茉莉奈にまた振られたとか?」


 わざと、また、という部分を強調して言う。けれど、春翔はゆっくりと首を横に振った。


「そうじゃない。凛香との思い出を振り返ってたら、やっぱり俺、凛香といる時が一番幸せだったんじゃないかって思って」


 なあ、凛香、と微笑みかけてくる春翔に、昔の彼の笑顔が重なる。

 でも、それだけ。


「私はもう、春翔といても幸せになれない。一度なくなった信頼は、もう戻らないから」


 もし春翔が昔と同じように振る舞ってくれたとしても、私はきっと春翔を信じることはできない。

 また不倫されるんじゃないか? 本当は、私のことを愛していないんじゃないか?

 そんな風に、怯えながら過ごすのはごめんだ。


「私、春翔の連絡先、消したから」

「そんな……」

「仕事中でしょ。早く戻りなよ」


 違うオフィスとはいえ、私と春翔は同じ会社に所属している。

 この先、完全に顔を合わせないでいるのは無理だろう。

 でも、私はもう二度と春翔と向き合う気はない。


「会社に言わなかったのも、春翔のためじゃないから」


 春翔と茉莉奈は社内不倫だ。会社に報告し、事を大きくすることだってできた。

 でも、それはやめた。


 春翔のためじゃない。

 茉莉奈の、私に恋する瞳を思い出したから。

 望月くんには、お人好しだって言われちゃったけど。


「これ以上ここにいるなら、サボってるって営業部に連絡入れようか?」


 春翔は未練がましく私を見つめた。

 睨み返してやると、背中を丸めて家を出ていく。


 別れたから、私が恋しくなったのか。

 茉莉奈に拒まれて、私のところへ戻りたくなったのか。

 慰謝料の支払いが嫌で、嘘をついているのか。


 春翔の本心は分からない。でも、もう彼の本心を気にせずに済むと思うと、すっきりした。


 ピンポーン


 春翔が家を出て20分後、引っ越し業者がやってきた。


 私は今日、3年間住んだこのマンションを出ていく。

 そして、もう二度と帰ってこないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る