第八部 主婦、旦那を捨てる

第16話 主婦、旦那と話をする

「春翔、話があるんだけど」


 茉莉奈に別れを告げて家へ帰ってきた。やはり今日も春翔の帰りは早くて、既に入浴を終えている。

 テーブルの上にはビールの空き缶が二つ置かれていた。


「帰り、遅かったな」

「そう? 前までの春翔に比べたら全然でしょ」


 私の言葉に春翔は顔を歪めた。分かりやすく溜息を吐いて私を見つめる。


「それは仕事が忙しかったからだろ」

「そんな嘘、いつまで通用すると思ってるの?」


 ソファーに座り、足を苦んで春翔を睨みつける。

 茉莉奈はもちろん憎い。でもその何倍も、私は春翔にむかついている。


「これ、書いて」


 私は記入済みの離婚届をテーブルの上に置いた。

 春翔の目が大きく見開かれる。


「……どういうことだ?」

「別れよう」

「は? 凛香、急にどうしたんだよ。そういう冗談、笑えないんだけど」


 薄く笑いながら、春翔が私の肩に手を置こうとする。反射的にそれを振り払った。


「不倫、してるでしょ。ううん、してた、って言い方がいいのかな」

「……凛香、なんか勘違いしてないか?」

「勘違い?」

「俺は不倫なんてしてない」


 春翔の目は忙しなく動いている。

 嘘が下手くそなのは相変わらずだ。


「深山茉莉奈」


 名前を呟いた瞬間、春翔の顔から表情が消えた。

 鞄の中から用意しておいた写真を取り出す。茉莉奈に見せたものと同じものである。


「これでもまだ言い訳するなら、まだ証拠はあるけど?」


 私が見せたのは、自分で撮った写真だ。腕を組んでホテルへ入っていく決定的な写真もある。

 それに、春翔のスマホに入っていた裸の写真も確保済みだ。


「……これは、その……」

「この子と浮気してる、いや、してたんでしょ? もう振られちゃったみたいだけど」


 くすっと笑ってあげると、春翔はとたんに顔を真っ赤にした。

 そんな春翔に、私は一枚の写真を見せる。


 春翔と茉莉奈の写真じゃない。

 茉莉奈と私の、いや、濱野凛の写真だ。

 腕を組んで、幸せそうに見つめ合っている写真である。


「なんだよこれ!」


 春翔の顔色が変わった。ああ、やっぱり春翔は茉莉奈のことを今でも好きなんだ。


「いや、違う、そうじゃなくて」


 慌てて春翔が言い訳を始める。でも、もう遅い。

 この写真を見た瞬間、春翔は私の存在を忘れたのだろう。


「この男、誰だか分かる?」


 春翔は黙り込んで、じっと写真を見つめ始めた。

 そして、春翔の顔が青くなっていく。


「まさか……!」


 写真の男と私の顔を何度も交互に確認し、春翔は大きく深呼吸した。


「凛香、なのか?」

「そう。春翔の大好きな茉莉奈はもう、貴方のことなんて好きじゃないの。茉莉奈は、私が好きで好きでたまらないんだから」


 春翔の身体が小刻みに震え出す。

 怒り? 悔しさ? 恥ずかしさ? 今、春翔の心を占めている感情はなんなのだろう。

 ありとあらゆるマイナスの感情を、全部味わっていればいいのに。


「今、茉莉奈は私に振られて悲しんでるよ。頼み込めば、代わりにくらいしてもらえるかもね」


 春翔は何も言い返してこない。


「なんで、こんなことしたんだよ」

「最後に、貴方を精一杯傷つけようと思って」


 最後に、というところを強調して告げた。春翔は俯いて何も言わない。


「早く書いてよ。今から出しに行くから。知ってた? 離婚届って、24時間いつでも出せるんだって」

「……本当に離婚するのか?」

「これ以上、一緒にいる意味なんてないでしょ」


 鞄からボールペンを出して、春翔へ向かって投げる。

 春翔は上手くキャッチできず、床に落ちたペンを拾った。


 震える手で、春翔が離婚届に記入していく。

 情けない姿を見ていると、今までの思い出が走馬灯のようによぎった。


「書けた?」


 春翔が頷いた瞬間、私は離婚届を強引に奪い取った。

 そのまま、玄関へ向かって歩く。凛香、という呼びかけは無視した。

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