第15話 主婦、不倫相手に別れを告げる

「なに、これ……」

「証拠写真。相手の人、既婚者だよね?」


 茉莉奈は一瞬だけ黙り込み、必死な顔で私の肩を掴んだ。


「で、でもこれ、昔の話なの! 今はもう会ってないし、連絡もしてないし……今は本当に、りっくんだけなの!」


 茉莉奈の言葉は真実だ。春翔とは完全に終わったみたいだし、他の男の影もない。


「どうして、不倫なんかしたの?」


 声が震えそうになるのを必死に我慢する。私はまだ凛香じゃないから。


「好きになっちゃって……」

「相手が結婚してるって、知ってたのに?」

「……奥さんのことは、もう全然好きじゃないって言われて、別れるつもりだって言うから……」


 全然好きじゃない? 別れるつもり?

 春翔、そんなことを言って茉莉奈を口説いてたんだ。


「相手の奥さんがどんな気持ちになるか、考えなかった?」

「……それは……」

「それとも、他人の気持ちなんて考えられない?」


 茉莉奈の身体が小刻みに震え出す。

 そして、丸い瞳から涙があふれた。


「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、りっくん……」


 茉莉奈は本気で謝っている。でもそれは悪いと思ったからじゃなくて、凛に許してほしいだけだろう。


 違う出会い方をしていたら、茉莉奈のことは嫌いじゃなかったかもしれない。

 でも、自分の旦那を奪われて、それでも仲良くするなんて無理だ。


「僕は分かるよ。奥さんが、どんな気持ちになったか。君のことを、どう思っているのか」

「……りっくん?」

「だってその人、僕の旦那だから」

「え?」


 どういうこと? と茉莉奈は混乱し始めた。


「まだ分かんない? 濱野凛なんて人間、最初からいないんだよ」


 薄く微笑んで、乱暴にウィッグを外す。素早くウィッグネットもとって、長い髪を下ろした。


「女なの、私」


 いつも通りの声を出すと、茉莉奈は固まって何も言えなくなってしまった。

 凛でいる間は、声を低くするように頑張っていたから。


「嘘……」

「嘘じゃないよ。貴女が好きそうな男になって近づいただけ」

「……どうして」

「復讐するために」


 嘘でしょ、あり得ない……と茉莉奈が呟く。正気の抜けた顔は、いつもとはまるで別人だ。


「ずっと、貴女が好きそうな男を演じて、貴女が喜びそうなことを言ってきた。それだけ」


 茉莉奈が涙に濡れた瞳で私を見つめる。

 きっと今、茉莉奈の頭の中にはいろいろな想い出が浮かんでいるはずだ。

 そのために、毎日メッセージでやりとりし、デートもしてきた。


「貴女といて楽しかったことなんて一度もないし、手を繋いだ時は気持ち悪くて仕方なかった」


 やめて、と茉莉奈が小さな声で言う。でも、私はやめない。

 楽しかった記憶に全部、泥をかけてやる。


「貴女のことなんて、一ミリも好きじゃなかった」


 伝票を持って立ち上がる。茉莉奈が、私の足にしがみついてきた。


「待って、りっくん!」

「だから、りっくんなんていないんだって」

「……もう、本当に会えないの?」


 はあ、と分かりやすく溜息を吐いてみせる。


「会えないよ、もう二度と」


 私は、大好きだった頃の夫ともう二度と会えなくなった。

 私の大好きだった人は、もうこの世のどこにもいない。


「貴女の好きな濱野凛は、もうどこにもいないの」


 だから、茉莉奈からも大好きな人を奪う。


「ばいばい」


 強引に茉莉奈を振り解き、個室から出る。

 啜り泣く茉莉奈の声を聞きながら、私はレジへ向かった。

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