第6話 アンタレス

 頷いた奏音はきまりが悪そうにうつむいた。


「あの、昨日は――」


「悪かった」


 裕真は奏音を言葉を遮って頭を下げた。


「え……どうして、裕真が?」


「昨日、考えなしだった。強引だった。ごめん」


 端的な言葉だが、顔を上げた裕真は少し下がった目尻といつもよりトーンの落ちた声をしている。人と話すのが苦手で表情もうまく変えられない裕真の、精一杯の謝罪だ。


「……ううん。私も、逃げちゃってごめん」


 軽く頭を振った奏音は「ねえ」と話しかけた。


「ペット、吹いてくれない?」


「え?」


 裕真が目を丸くする。


「……部活紹介のとき、吹部の演奏を聴いて、思ったんだ。また、中学生のときみたいに音楽に明け暮れる生活が送れるんじゃないかなって。昨日は怖くて部室に入れなかったけど……裕真の音楽は、いつも私を勇気づけてくれたの。だから、明日は行くから、裕真の音楽が聴きたい」


 奏音自身、自分の口からこんな言葉が飛び出してきたことに内心驚いていた。自分には音楽をやる資格などないとあれだけ思っていたのに。


「……わかった」


 裕真はすぐに頷いて奏音に背を向け、フェンスに近づいていった。そしてトランペットを構える。


 裕真が吹き始めたのは『アンタレス』だった。トランペットの音色には似合わないような静かな曲なのに、柔らかく響き渡る音色が奏音の心に優しく染み込んでいく。


 やがて吹き終えた裕真は奏音を振り返った。


「……元気出た?」


「うん。ありがとう、裕真」


 奏音は微笑んだ。本当に久しぶりに、安らいだ微笑みを浮かべていた。それを見た裕真も微かに口角を上げた。



「奏音さん、今日は何か嬉しいことでもありましたか?」


 夕食をテーブルに並べていた沙弥香が、出し抜けにそう言った。


「えっ?」


 手伝いをしていた奏音は驚いて訊き返した。


「ど、どうして?」


「鼻歌を歌ってらしたので」


 奏音は一気に顔を赤くした。


「う、歌ってないよ……」


 全く自覚がない。いつの間に歌っていたのだろうか。


 顔を真っ赤にする奏音をよそに、沙弥香はニコニコしながら箸を並べた。


「奏音さん、終わりましたよ」


「うん……」


 ムスッとしながらテーブルにつき、「いただきます」と箸を持つ。


「それで、嬉しいことでもありましたか?」


 味噌汁のお椀を持った沙弥香が再び聞いてくる。沙弥香の左右に座っていた川谷かわたに仁美ひとみ佐藤さとう未奈美みなみも顔を上げた。


「うん……今日、裕真にトランペット吹いてもらったの」


「裕真さんに?」


 仁美が素っ頓狂な声を上げた。


「そう。それで元気もらったから、明日吹部の仮入部行こうと思って」


「そうなんですか……」


 未奈美は優しく微笑んだ。


 奏音はミネストローネをすすり、「おいしい」と小さく呟いた。


「今日、仁美さんかな?」


「よくわかりましたね」


 仁美が優しく微笑む。


「うん。ちょっと甘めだから」


「え、全然わかんない」


 沙弥香と未奈美がミネストローネを食べ、首を傾げている。


 それを見て笑った奏音は湯気のたつミネストローネに目を落とした。


(……皆優しいから、私、また音楽の世界に戻ろうって、思えたのかな)


 勇気を出して、裕真に頼んで良かった。明日は、ホルンを吹くんだ。実に、一年半ぶりに。

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