第4話 逃亡

「――楽しそうだったね、奏音」


 部活紹介が終わり、賑わう体育館で出し抜けにそう言われた。


「え?」


「自覚なかった? ずっと笑ってたよ〜」


「嘘……」


「まあ、凄かったもんね、あの演奏」


 ――凄いの一言じゃ、片付けられない。


 通っていた中学校だって、有数の吹部強豪校だった。それなのに、なぜこうも違って見えるのか。聴こえるのか。技術的には、そんなに差はないはずなのに。


(……わからない。けど……)


 仮入部に行ってみる価値はあるかもしれない。奏音の心は、高校に入学して始めて浮き立っていた。



 しかし、翌日には、その考えが浅はかだったことに気づく。部室には、たくさんの人がいたのだ。広い音楽室には百人ほどの人がひしめき合っていて、あちらこちらから楽器の音が聞こえてくる。


 もしかしたら、自分の知り合いがいるんじゃないのか。あのときの自分を見ていた人がいるんじゃないのか。そう思ったら怖くて、音楽室の前で立ち止まっていた。


(こんなに人が、いるなんて……)


 きっと昨日の演奏に、奏音と同様衝撃を受けたのだろう。


(どうしよう……)


 一歩下がった、その時。


「……奏音」


 無愛想な声とともに、腕をつかまれた。思わず「ひゃっ」と変な声が出てしまう。


「――裕真!」


 裕真が、いつもの無表情で奏音の腕をつかんでいた。


「……行こう」


「あ、ちょ……!」


 裕真は奏音の背中を押すようにして強引に部室に入ろうとする。


「や、やめて!」


 奏音は裕真の手を振り払った。裕真が目を見開いて奏音を見る。


「……奏音?」


 裕真が遠慮がちに口を開く。


「……っ!」


 奏音は何も言えずに踵を返して走り出した。


「あっ……!」


 裕真は振り払われた右手を伸ばしたが、奏音には届かなかった。


(奏音……)


 行き場のなくなった右手を引っ込め、胸の前でギュッと握りしめた。



 学校を飛び出した奏音は最寄りの駅に向かった。息を切らながら改札を通り、止まっていた電車に飛び乗る。入口の壁に寄りかかって肩で息をしながら、肩に掛けている通学バッグの持ち手を握りしめる。


(また、逃げるんだ……)


 あのとき、奏音はホルンから、音楽から逃げた。そして今も、逃げ続けている。


(ダメだな、私……)


 流れていく景色が滲んで消えていった。



「ただいま……」


「お帰りなさい、奏音さん」


 自宅に帰ってきた奏音が玄関の扉を開けると、ホールの掃除をしていた使用人のもり沙弥香さやかが顔を上げた。


「ただいま、沙弥香さん」


 返事をした奏音は目の前にある階段を登り、自室に入った。バッグを机の横のラックに起き、制服のままベッドに寝そべる。


 寝返りをうつと、ベッドの側にある小さな窓が目に入った。窓辺に置かれた写真立てには、中学一年生の全国大会の時の記念写真が入っている。


「……」


 写真に写った奏音は笑っている。奏音だけじゃない、他の皆も。


 あの音楽に明け暮れていた日々が脳裏に蘇る。しかし、奏音はギュッと目を瞑って記憶を箱の中に入れた。


(……私は、音楽をやる資格なんてないんだから)


 奏音は手を伸ばし、写真立てを伏せた。

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