駆け出し秘書と恋とお仕事
「こんにちは。私は真里亜。南条 真里亜よ。あなたの前任者で、噂の元秘書っていうのは私のこと。あの人のわがままに付き合わせちゃって悪いわね⋯⋯」
翌日から、秘書の技術を一から訓練してくれることになった。
「いえ、南条さんから学んで秘書の役割をやり遂げられるようになります」
「真里亜でいいわ。言ったことで大切だなと思ったらできるだけ細かく記録することを心がけてね」
「準備してきました。ばっちりです!」
こうして、私は真里亜さんに仕事を教わりながらではあるが一応「秘書の見習い」となった。この時点で基本給に、出来高という形で加算されていた。どんどんと、猛烈な勢いで外堀が埋められていくような気がしていた。
「仕事を覚えるのと並行に、秘書検定を受けてみるのも良いかもしれないわね。今はとりあえず三級の取得を目指すのがベターかな」
「あの、真里亜さんは何級持っているんですか」
「一級は持ってるかな。ビジネス資格だからそんな偉い物じゃないけど」
「そんなことないですよ、合格率だって低いんですから」
そんな世間話もそこそに一日が始まった。今日一日の予定の確認、飲み物の給仕、取材時の補佐、社長に対しての電話の応対、会議での書記、プレゼンの事前資料の準備、来客の対応や、その他の雑務まで、仕事は多岐にわたる。雑談力や、円滑なコミュニケーション力も必ず求められる。
「受け身ではいけないわ。こちらから先回りするように、でも出過ぎても駄目なの。あくまでも従者として振る舞う。言うのは簡単だけど、実践するのは難しいのよね⋯⋯」
「できるか不安です」
「慣れなさい」
「はい⋯⋯」
真里亜さんは習うより慣れろのスパルタタイプなようで、ついていくのに必死ではあるが、充実と成長を感じている。拝啓、家族のみんな、たった今、私は世間の厳しさと優しさの間に挟まれては、社会の荒波の中で揉まれては翻弄されているよ。でも忙しくて楽しいよ。
「来客の方のコーヒーできているかしら?」
「あ゛っ、只今持って参ります。ええと、今日はブラックで良いはず⋯⋯」
ドタバタではあったが、必死に食らいつきながら、基礎を叩き込まれる一ヶ月だった。覚えるだけで精一杯だったが、近くで社長がどのような人物かじっくりと観察する良い機会にはなった。
秘書業を始めて、柊社長について分かったことがある。
飲み物を渡す時、いつも目を見てありがとうと言ってくれるところ、身だしなみがいつも整っているところ、所作がやたらと美しいこと、紳士的で誰とでも打ち解けられる、話が上手くていつの間にか引き込まれるといった点だけは、人生の先輩として尊敬できる点が多いと言うことだ。それに、確かに目を引く魅力も多い。一番の魅力は持っている基礎的なスペックの高さである。身長は女性にしては長身の176cm、髪型はマニッシュなショートカット。中学と高校ではバスケットで全国大会に出場、最優秀選手に選ばれたこともある。その実績が評価されだが、大学時代の故障が原因でプロへの道は断念し、経済の道へ行くことを決意したようだ。大学でCN(サイバーネイションの略称)の基幹プログラマーの女性と知り合ったという。さらに多くのプログラマー志望の学生や、新しいアイデアを持ってはいるが実現させ方の分からない若者たち、資金を出してくれるような資本家、銀行の担当者、あらゆる必要な人材を口説き落とし、段々と会社を大きくしていったそうだ。
肝心の社長としての部分、例えば仕事に対する真摯な姿勢と、いざという時の思い切りの良さと胆力、責任は全て自分にあるからと言って挑戦を受け入れてくれる気前の良さ、思考の柔軟さ、人に好かれるキャラクター、どれも会社社長において必要な能力を全て持ち合わせているのが社長である。聞いていたのは社長だけの秘書ということだったので、何かおかしなことをさせられるのかとされるのかと思い身構えていたが、それは杞憂に終わった。
「そんなに信用ないとは思わなかったよ。変なことなんてしないって」
言葉通り、してくることと言えば、稀にプライベートの外出に誘いがある程度だった。それ以外は秘書としての職務の範疇を出ないことしか要求してこなかった。
ここまで聞くと完璧人間なのだが、私と真里亜さんの前になると一変する。
「もうこの際、誰でもいいから付き合いたい⋯⋯この際、交際相手、真里亜くんでいいと思うんだ⋯⋯」
副社長から深いため息が漏れる。
「今時そういうのもセクハラに当たりますよ。見ていられないほどに哀れなのでやめて下さい」
社長は中身は思春期の高校生なのである。それもその筈、社長は学生時代はスポーツ一直線で恋愛経験は一度しかないようだ。その恋の終わりが散々な振られ方だったらしく、それがトラウマになってしまい、それ以来、本気で恋愛をする事ができなくなってしまったらしい。
「マッチング相手で会った全員からセックスがあまりにねちっこくて長いし、自分勝手で一緒にいると疲れるって振られるなんて酷いじゃないか⋯⋯」
また始まったよ、めんどくさいモードだ。よし、こうなったら私は黙っていよう。それがいい。
「私が秘書を辞めてから何の進歩もないんですね。いい加減に落ち着いてください」
「もっと若い子達とワンナイトでいちゃつきたいと思って何が悪いんだい」
「こら、アナタいったい幾つになったんですか。30過ぎにもなってみっともない⋯⋯!」
社会人になって会社が軌道に乗り出すまでは仕事だけが生活の中心となっていた。そうしている内に30代になっていたんだそう。それ以上の詳細を聞き出そうとしてもいつもはぐらかせれて終わる。
「もっと聞きたいなら、君が正式に秘書を引き受けてくれないとね」
だから、恋愛感情のない関係をいろんな人間と持っているんだとか。社長ほどのお人なら、しっかりと本気を出せばいくらでも相手が見つかるだろうに、これで独り身なのだとしたら、過去のトラウマがそれほどの大きな影響をもたらしたのかもしれない。だが社内の評判は仕事が終わるとパーティ三昧で、著名人たちと遊び歩いているのだとか。
何故そんな人に、自分のような普通の人間がここまで気に入られてしまったんだろうと、困惑ばかりする毎日だった。ただ私は、恋愛に奥手であるという点においては不思議とシンパシーを感じていた。
副社長に助けてもらいながらではあるものの、仕事を覚え始め、私一人で社長の身の回りの世話と通常業務の一部を任せられるようになった。
商談が終わり、菓子折りでいただいたクッキーと共にコーヒーブレイクをしていた時に、珍しく柊社長が過去について話し始めた。いつも、昔付き合っていたパートナーにこっ酷いふられ方をした、ということくらいしか教えてもらえないのだが、今日は様子が少し違った。
「今朝、私宛に封筒が来ていてね、招待状だったよ。あの子の結婚式だってさ。フランスに移住して籍も入れるんだって書いてあったな。あの子と過ごした時間は、今でも思い出すくらい幸せだったんだが、今となってはすこしうらめしくなるよ」
窓の外、都心の人々は忙しなく動き回っている。世の中は回っている。
「あーあ、何であの時、一歩踏み出さなかったんだろうなぁ⋯⋯」
「社長にもそんなふうに感傷的になることもあるんですね。はい、お注ぎしますか」
「あぁ、頼むよ。振られたのがちょうど今日でね。勿論あの子の性格上、狙ってやっている筈はないだろうけどね。郵便物に曜日指定ってそもそもできるのかい」
「⋯⋯日本郵便株式会社によると、差出日の3日後から起算して十日以内であれば可能だそうです」
「ふーん、なるほどね」
社長はいつの間にかバニラクッキーを平らげていた。
「葵くん、君も後悔しないように秘めてる想いはしっかりと相手に届けるんだよ。いいね?」
窓の外を見つめる横顔は寂しげであった。私もその心の痛みを受けた記憶がある。どうしても同情してしまうのは仕方のないことだ。私と社長は似ていると思った。
試用期間が終わり、昇級と私立秘書への公式に異動した。初めての仕事がモーニングコールだった。勿論すでに起きているものの、確認が取れるまで安心できない。
「やぁ、葵くんからの通話楽しみにしていたよ。今日はテレビの取材だったかな?」
「はい、土曜日の午前中に放送しているバラエティ番組ですね」
「コメントを考えておくよ」
「午後に取引先とのミーティングもございます。宜しくお願い致します。では、玄関でお待ちします」
通話を切り運転手に指示を出す。給与体型が驚きの高待遇で、裏があるに決まっているのかと思ったらただそばにいてくれれば十分だよと言われてしまった。流石にここまでされると何かしらお返ししなければバチが当たると思ったが、気にしないで良いと仰られているのであれば、ご厚意に甘えよう。
「君は本来の仕事以上にここまで頑張ってくれているだろう。それ報いたいんだ。まぁ、お遊びだと思って三十路過ぎの独身女の孤独を埋めておくれ」
やはり社長は変わっている。だがこの人には世話を焼きたくなってしまう困った人だ。仕事を終えた後のこと。翌日は休日だった為、都さんと私をディナーにお誘いいただいた。
「都さんと、今日の取引の慰労も兼ねて食事に行くんだが、君もついてくるかい」
こうして機会があれば、食事に都さんと一緒に私もお誘いいただくこともあり、積極的に話せる機会を設けていただけるキューピット役を引き受けてくれることになっている。これは秘書を引き受ける時に付け加えた条件だったのだが、律儀に守ってくれていた。
「君って意外と肝座ってるよねぇ⋯⋯分かった。葵くんの恋を全力で援護射撃してあげよう。大船に乗った気持ちでいたまえ」
「宜しくお願いします」
言葉通り何かにつけ都さんと私を引き合わせてくれた。しかも自然な流れで、全くぎこちなさが無いとくる。私にはとてもじゃないが真似できない。そもそも私は同性が多い学校の出身だったこともあってか恋愛には奥手であったということもあり、より社長の凄まじさを感じていた。
「何故ここまでしてくれるんですか」
「本命がいる子に手は出さない趣味だからだよ」
「律儀ですね」
「それほどでも」
その後も社長のアシストを受けながら、都さんとの仲を深めていった。全て順調だったと思う。秘書検定も準一級まで合格することができたことも大きい。メンターの真里亜さんからも秘書ぶりが板についてきたとも言っていただけている。都さんとは二人だけでも出かけるようにもなったし、連絡先も交換して頻繁にやり取りもさせてもらっていた。決心をつけるには十分な時間だった。
社長に、いい報告ができるかもなんてのぼせ上がっていた。
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