第7話 黒橡から伊吹へ


 「遊びで誰かが書いたのかな」と、勉がその紙を手に取り陽に透かしてみたり、匂いを嗅いでみたりして注意深く観察する。

 「この紙、裏になんか大きなクエスチョンマークが書いてあるな」

 勉が広げる紙に指を差しながら伊吹が呟いた。

 「え?どこ?」と、煌は紙に目を凝らす。

 ──脱出……、何だか良くわからない。いや、ある意味、辻褄は合っているのかも知れないな……。どうにも捨てきれないちぐはぐさばかりが解決せずに頭に溜まってくる感じは、そのせいなのかもしれない。

 「この紙、全然破れない、穴も空かない。頑丈な紙だよこれ」と、勉が呟く。

 伊吹は辺りを見回すと、紙に食らいついたままの勉と煌に声をかけた。

 「とりあえず先に行ってみよう」

 「このまま先に行っても大丈夫なのかな」と、煌が不安そうに投げかけると、「行ってみれば分かるだろ」と言って伊吹は畑に囲まれた道を進み始めた。

 伊吹に、黙って二人は続いた。

 

 「この五条ってやつ、煌は全部当てはまってるよね」

 勉は嬉しそうに煌に話しかける。

 「どこがたよ、博愛ってちゃんと書いてあるだろ」と伊吹が指摘すると、「お前みたいな意地悪には何故か愛が用意されて無いんだ、悪いな、ねー勉!」と煌が勉に微笑んで、「勉、悪いな一抜けだ」という伊吹の背中を煌は殴った。勉は苦笑いを振り撒いた。

 

 「なんか、空が段々暗くなってきてる」と煌が呟く。

 空は丸い陽を端に追い遣って、反対側を黒橡に染めていた。それは伊吹達の向かう先にある空だった。

 「空だって、陽の色に飽き飽きする事だってあるだろ」

 伊吹は少し陽気な声で言った。

 ──くすむ空なんて初めて見たが、中々の不気味さだな。

 伊吹の後ろを歩く二人は憂鬱に顔を染めている。

 緑だった脇の草達もいつしか枯れ色に染まっていた。

 しっかりとした道は彼等の足をもたつかせるほど泥濘だらに成っていた。

 「どろどろで歩きづらいね」と、勉がおどおどしながら歩く横で「イタッ……なんか切った」泥濘から飛び出た木の枝で煌が足首を薄く切った。伊吹は平然と歩いていく。

 「本当にこのまま進んで良いの」

 浮かない表情の煌がいよいよと言い出す。

 「なんか腐った林檎しか出てこないんだ、お腹空いて仕方無いよ」

 勉が空間から黒ずんだリンゴを取り出して捨て去る。

 「やっぱり戻ろうよ」

 伊吹の袖口を弱々しく引っ張る煌。

 「いや、こっちで良いんだ、多分」

 そう言って伊吹は立ち止まった。顔と体は道の先へ向けたまま。

 「どうして?」と、伊吹の顔を横から覗く煌。

 「地獄への道は何故か行きやすい様に舗装されてるらしいから。この行き辛い道はきっと、地獄には繋がっていない筈なんだ、勿論天国でも無いだろうけどな」

 「何だそれ……、誰かにそう聞いたの?」

 「ああ、そんなことわざを昔」そう言いながらまた先へ足跡を付けていく伊吹。

 泥まみれな靴達はひたすらに泥を己に塗り重ねていく。

 

 冷雨が挨拶もほどほどに降り始める。

 勉が声を弾かせた。

 「伊吹!煌が!」

 伊吹が振り向いた先には、地に跪く勉。その腕の中で、煌は座り込んだまま動かずにぐったりと項垂れていた。狭い肩が苦しそうな息を続けている。

 「見て!煌の足が!」

 勉がもう一度弾かせた。煌の足首にある傷口が酷く膿んでいる。まるで腐ったリンゴの様に赤黒く変色し腫れている。腫れは艶やかさを演出する程に肌を膨れ上がらせていた。

 伊吹は緊張を走らせ強張る顔を向けているだけだった。

 「どうしよう!煌が死んじゃうよ!」

 その勉の声で我に返った様に、伊吹の瞳孔が力を増していく。

 雨が冷ややかさを増して満遍なくそれぞれを濡らす中、伊吹は白い息を吐き出し置き去りにした。

 「勉、煌を頼む」

 「ねえ伊吹、どこに行くの?!」勉の手の平が更にしっかりと、未だ眠る煌の手を掴んだ。体温は少しでも伝っていただろう、勉の腕から震えが始まる。

 煌の首は力無く後ろへ、勉の腕にもたれかかる。閉じた目の上の眉間に苦悶が浮かぶ。息の荒々しさは増していた。

 「この先に行けば助かるかも知れないんだ!」

 か細い首にしては上々だろう音の大きさで、伊吹が叫んだ。

 ──どうせこのままじゃ戻る事も出来ない、腐ったリンゴしか出ない状況で碌な手当てだって出来やしない。この先に行けば、きっと何か手があるはず!何かがきっと──

 「そんな事言ってる場合じゃ無いよ!煌が大変なんだよ!」と、勉が負けじと声を張り上げる。

 「わかってるよ!ただ……」

 「わかってないよ!これは遊びじゃ無いんだよ!」

 伊吹は再び足を止めた。

 

 「煌、死んじゃうかも知れないんだよ!」

 勉は一生懸命に煌を抱き寄せた。

 伊吹の拳が強く握られただけで、他では雨も空も、道と白い息も、そして煌も、何も変わらない時間が、彼等の何も起こせない時間として横たわり寛いでいた。

 

 ──こんな筈じゃ……。くそ、早く何か策を考えないと!

 

 彼等に遠く、そして闇夜に近しい黒橡に擦れた跡が現れ、しっとりした女風の声を発する。

 「どんな筈だったのか、後で聞いてみよう、楽しみだよ、伊吹」

 

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