第6話 work


 「煌、僕達こんな所まで来たんだね!初めてだね!」勉が遠くに見える集落を眺めながら、ニコニコと嬉しそうに私に言ってきた。

 「うん、そうだね」笑みを返す私。

 

 集落から出てまだ数十分程だった。遠くの山々がその身大半を見せつけてくる程開けた土の道の上を歩いている。燦々と陽を浴びてもいる。そして風も温和で緩慢とせず先へ先へと進んでいる。なのに……。

 心が着いて来ない。心の本体を集落へ置き去りにして、どうにも落ち着かない体だけが今此処にある様な、肌を剥き出しにして凍雪いてゆきの上に寝そべっている様な危なっかしい感覚。寂しさからも、悲しさや勿論楽しさからも遠く離れた所にある何かの感情に支配されたまま。

 普通なら、前を歩く二人の様に開放的に事を楽しめる筈なのに。

 まあ、考え過ぎた事はすべて問題になると言うし、と気にしない様にした。

 

 「どうした、煌」

 伊吹が何かを察知したのか、訊ねてきた。

 「ちょっと寒いだけだ」

 と言うと本当にそう思えてしまったので、私は腕組みをしてみた。寒さを感じる事なんて今まで無かった。

 「どうしたの煌、大丈夫?良かったらおんぶする?」

 勉が心配そうな顔を途端にひっくり返して、代わりにかがんだ背中を見せながら言ってくれる。

 「いや、大丈夫だよ、勉ありがとう」

 勉はいつも素直で、優しくて、太くてコロコロしてて可愛い。まるで弟の様な存在だったから、正直、一緒に来てくれて嬉しかったな。

 「どれどれ」と、伊吹が私の額に手を伸ばしてきたので、私は咄嗟に勢い良く手で払い除けてしまった。

 「いい、大丈夫」

 子供扱いされている気がして癇に触る、ただそれだけだったけれど。

 「そっか、無理すんなよ」と、すんなり大人しく引き下がる伊吹。何か私が凄い悪い奴みたいになると、たったそれしきの事で気分が重くなった。やはりいつもと違う。

 「さあ、とりあえず行こうぜ」

 伊吹は、向き直ってまた前へ。

 ただ、振り向きの際の一瞬だけ、神妙な顔が見えた。まあいつもの様にみちみちメルヘン脳の中に浸っているのだろう、とあまり気にはしていなかった。

 

 ひたすらに歩いていると、こんな所もあったのかと驚いた。

 道の脇に続いた緑が綺麗にぱつっと終わると、そこからは畑が前にも横にも、延々と奥まで続いていた。

 「凄いね、こんなに広い畑見た事無い!圧巻だね」と、勉が両手を広げて歓喜している。

 私は固まってしまっていた。

 隣を見れば同じく固まっている伊吹がいる。

 「俺たちは、あの集落から出た事なんて無いよな」

 伊吹の声は落ち着いている。

 「ああ……」

 私の声は少し力んでいた。

 「なら何で、これを畑[#「畑」に傍点]と呼べるんだろうな、集落にはこんな物は無いのに」

 伊吹の声はまだそのまま。横顔そのものは何も答えようとはしていなかった。

 だが、一瞬で私は目撃者にされてしまった。伊吹の目つきは困った事に、今こうして初めて見たばかりのこの景色を前に見飽きた様な退屈そうな色を瞬きに浮かべて消したのだ。

 畑の問題がそこに留まらない事は直ぐに理解したからこそだった。背筋が冷たくなった事すら、隣の伊吹に最早バレている気さえする。

 伊吹は、伊吹とは、一体何者なのか。そこまで突き刺してみても、怖いのか何なのか分からない抵抗力でそれ以上は弾き返されてしまい、上手く考えられない感覚に侵されて行く。

 「ねえ、入ってみようよ!」そんな事を気にもせずの勉が満面の笑みで誘う。

 「じゃあ、入ってみるか」すんなり畑に入っていく伊吹。靴に掻き乱される地面の土。綺麗な地が踏み躙られる様が焦点として何故か定まっていく。

 弱々しく舞う土飛沫が強烈に心を乱して来る。まるで噴き出す血を押さえる様に、咄嗟に胸の真ん中らへんの服をぎゅっと強く鷲掴みした。苦しく、強く痛む。理由など考えられずにただ堪えるのに必死だった。恐怖と憎悪の尻尾が少しちらついて見えた気がした。息がし辛くて呼吸が早まっていく。

 「おい、大丈夫か?」

 伊吹が咄嗟に気づいて、徐々にへたり込む私の体を手で支えてくれた。

 一体何が起きた、そんな驚きの表情の伊吹と勉の、その顔を見上げるだけで精一杯だった。支えてくれる伊吹の胸に、頭を預けるととても楽になれた気がした。私は眠る様にして瞼を閉じ、意識を切る。

 こんな事が出来るのはとても久しぶり、そう感じながら。けれどそれは伊吹にとか特定されたものじゃない。ただ漠然とだけ、人に[#「人に」に傍点]。もしかしたら私は笑みを浮かべていたかもしれない。もしくは涙を流していたかも知れない。それほどの安堵に満ちた一時だった。

 

 葉と葉の隙をついた陽が目覚めを呼び寄せてくれた。木陰で横に寝た私を二人が見下ろしている。

 「大丈夫か?」

 「うん」伊吹の問いかけに今はすんなり素直な声が出てきた。

 「本当に大丈夫?」

 「うん、本当に大丈夫」勉の赤い目に笑みを返した。

 「私、なんか泣いたり笑ったりしてなかった?」

 「なんか、安心した顔して寝てたよ」と、勉が笑みで答えた。

 

 ただもう少しの間だけ横にさせてと伝え、畑の方へ向かう二人をただぼんやり眺めていた。

 すると伊吹と勉は、木の枝で畑の土を掘り返し続けた。掘り返して何かをする訳じゃ無く、ひたすらに掘り返していく。次第に伊吹が勉からも私からも離れていく。

 本当にどうしてなのかは分からなかった。私は何故、耕し[#「耕し」に傍点]の意味と言葉を知っているのか、そして二人は何故それを今体現しているのか。私はただ漠然と二人を見続けていた。

 「なんか無性に、こうしたくなるな」と、遠くの伊吹がそう叫んだ。

 「うん、何でだろうね」

 勉が既に汗を垂らしながら答えた。

 暫くすると二人は満足した様に私の方へ戻ってきた。

 「一体、二人でずっと何してたの?」

 何か嘘でも隠す様に、私は平然を装って聞いた。いや、装ってしまっていた。

 「いや、何というか、すっきりするというか、なんか、体と心が喜んでいるんだ。もっと続けてくれって言ってるみたいでさ」と、伊吹は清々しく答えた。

 伊吹の抽象的表現はさておき、少なくとも伊吹は耕しだと知らずにやっていたという事になった。

 「なんか自然と共に生きてるって感じがして良かったよね、何で掘ってるのかは全然分からなかったけど」と、勉も同じ様子だった。

 畑を知っていた私と伊吹達にでさえ違いが生じるという奇妙な事実を突きつけられ、更に混乱した。

 ユートピア。全てが整う盤石の安寧を齎す地。自然、人々全てがありのままの美しさを照らし合う世界。けれども、私達は実のところその正体を知っている訳では無い。だから今、畑に困惑している。

 一体今何が起きているのか。伊吹は、勉は、そして私は、一体何を知っている?そして何をしようとしている?

 私は、一体誰?

 そうして悩む事を待っていたかの様に、それが現れた。

 「そういえば、こんなもの拾ったんだ、畑の中で」

 勉がポケットから土で汚れた紙切れを出し、広げて見せてきた。

 その紙にはこう書いてあった。

 【ユートピアから脱出する為に必要な五条】

 自発的。常に己で考え行動する事。

 

 活発的。いかなる状況にも負けない精神と体を持つ事。

 

 懐疑的。常識に耳を傾けるな。己の声に傾けよ。

 

 博愛的。愛は喜びの糧。

 

 確信的。命と意思を違わずひたすらに、完全なものに成るまで。

 

 その紙を読んで、やがて二人の顔は険しく成っていく。

 「なんだこれ、ユートピアから脱出、どういう意味なんだ?」と、伊吹。

 心臓が一拍、強く躍動した私。私の中に、知らない私がいる。そう確信してしまった。

 

 何故なら、心が高揚して止まないまま、二人に見えない様に笑みを浮かべていたのだから。

 

 私は誰。

 

 

 

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