第5話 門出の意味と煌と勉


 山、川、空、樹木の豊満な果実、多様な色を一瞥していく伊吹。上半身を起こすと地面の緑に目を落とした。熟れて落ち転がる果実も色褪せてすらいない。

 

 伊吹は何かに勢いづいてか、勢い良くさっと立ち上がる。

 ──今日は何だか落ち着かない。

 伊吹の体を後ろから風がそよそよと吹きつけた。

 「今日も暖かくて優しい風が吹いてるな、気持ち良い」

 勉が、スマートな伊吹とは対照的なぽってりとした腕を横に広げて、丸々とした体の上にある同じくの顔についている口でそう言った。

 「そろそろ、新しい所に行ってみたい」とだけ呟いて、伊吹は勉の方を見ずに後ろを振り返りそちらへ向かう。

 ──何か、心を括る糸でもあるかの様に、ゆっくりとそれで引っ張られてる気がしてならない。抗えば桃の実の様に傷んで直ぐに腐ると、後悔が次いでやって来る。何なんだ、一体。いや……。

 「今から俺は旅に出る」

 そう言って、今いる山の麓の方を見て一つ、溜め息を吐く伊吹。

 後ろを着いてきた勉が心地良く賛同する。

 「そうか、それは良い。ユートピアはいつも自由、この世界もきっと伊吹を応援してくれるよ」と、空を仰ぎ見た。

 

 麓の集落には数千程の人々が思い思いの振る舞いをしている。踊り舞って笑う人々が居たかと思えば禅で石像群の様に成ってみたり、食う飲む傍で眠り呆ける生物的な括りの人々がそこかしこに居たりであった。そしてそれらはおおよそ成人以上の老若男女だけであり、子供は一人も居ない。

 集落には建物など存在せず、物物はまるで手品の様に何も無い所から取り出され[#「取り出され」に傍点]たかの様に、人の手によって出現する。物として存在しない物があるとすれば、乗り物の類と武器と、墓や棺位だった。

 今日も良い天気だね、今日も昼の酒が美味い、今日ものんびり雲の様に気ままでいよう、と、集落の人々はまた思い思いの今日を私語としてささめく。

 ──楽しいか?と聞いたら楽しいと笑みで答えるこの人達は、いつまででもここに居るんだろうな。そのうち体から苔が生えても、きっと楽しそうにそれを笑うだろう。それも幸せなのかもな。

 伊吹は集落の人混みの中、真っ直ぐ進みながら、何も気に留める事無くその中心部に到着した。勉はその伊吹の後ろを黙って着いていく。

 その中心部からは四方を囲む様に立つ山が丁度同じ大きさに見える。どれも似た様な山であり、それを似た様な色合いをどこまでも見せ続ける空が上を埋める。

 伊吹は四方を見渡し、また元の方向を向いた。勉は右へ倣えだった。

 ──やっぱりどこも同じか。

 伊吹は目先の何も無い空間へと手を伸ばし、コインを取り出した。想う物が丁度そこに在った様な、自然な仕草で。

 何かの建物が彫刻された茶色のコイン、表も裏も同じデザインのそれを、伊吹が上へと親指の爪で弾き飛ばした。回転しながら真っ直ぐ上へと向かい、程なく落ちてくる。

 「ちょっと待ってくれ」

 宙のコインをさっと手で握り取って、その反動で強く靡いた己の赤く長い髪に顔を襲わせながら、その女は伊吹にそう言った。

 一瞬呆気に取られるも伊吹はその女に返事をする。まるで、面倒な奴を見る様な冷え切った目を向けて。

 ──面倒臭い奴が出てきたな。

 「ああ、煌。どうした?」

 「何処かへ行くんだろ?」

 煌という名の、伊吹と同じ程の年二十歳位の女。小さな顔と鼻、口、少し吊り上がった大きく円らな目のそれぞれの整いは、美と称される事の多さをユートピアの景色と違わないとされる程のものだった。目の天色を贅沢に相手へ浴びせ、赤く煌めく艶やかな髪が相手の視線を集約させる。

 そんな顔を用いてまるで図星を言い当てた様に勝ち誇りはにかみながら、煌は伊吹の冷たい目の奥を覗く様に見つめて言う。

 伊吹は何の反応も抵抗もせずに立っているだけ。

 「私もそうなんだ、だから一緒に行こう!」煌が続けた。リズム良く足踏みをして、声を張り切らせた。

 伊吹は暫く変わらずでいた。

 ──こいつの面倒さはこの変なテンションと、そして理屈っぽ過ぎる所だ。こんなのがずっといたら俺は屁理屈人間になってしまう。俺は俺のままで感受性豊かに居たいんだ!こいつはしかし、理屈でねじ伏せ無いと治まらない……。

 「何の理由で?」

 冷めた低い口調で伊吹が言う。

 「同じ日同じ時に同じ思いで旅立つんだ、理由としてはそれだけで十分だろ」

 足踏みを止めずに煌が答える。やがて歩き出し、伊吹の周りを回る。惑星を公転する衛星の様に。

 そんな煌を見向きもせず、伊吹は前に目を据えたまま話を進める。

 「勝手に同じ思いと決めるな。それに一緒に行って何の意味があるんだよ」

 「意味?この世界に意味なんてどこを探しても見当たらないぞ、それは物じゃ無いからな」

 ──さっぱり意味が分からない。物じゃ無いから何だと言うんだ。どうせまた変な理屈をくっつけて来るんだろう。くそ、一発で仕留め損ねた。こうなったらもう敵わない、失敗した……。

 「さっきからその喋り方、似合って無いぞ」と、煌を睨んで言い放つ伊吹。

 「細かいぞ男のくせに」と、間髪を入れずの煌に、「男差別だぞ、女」と、伊吹はすぐに打ち返した。

 そこかしこで歌や合奏が明るく鳴る集落。その弾んだ音色は集落の隅々まで行き渡る。そんな中で、歪み合っているのは伊吹と煌だけだった。今度は目力のラリーを始めた。

 ラリーを中止させたのは勉だった。

 「俺も行っていいかな?」

 そう主張する勉の、二の腕の肉が一度踊る。潤いある目を丸くして、口は控えめに口角を上げながら。

 「いいぞ!」凛々しい顔と声の煌に、「何でお前が決めるんだ、お前とも行くと言ってないぞ」と、伊吹が勢い良く反論した。

 「意味は見当たらない[#「意味は見当たらない」に傍点]と言ったが、この世界にも一つだけあるんだ、実は」

 口元ははにかんではいたが、そう述べた煌の目は笑わずとても静かなものだった。

 ──また理屈か……でも、嫌いじゃ無いフレーズだ。

 「意味か?また理屈っぽい事なんだろ」と、伊吹が吐き捨てる様に言うと、「ちゃんとメルヘン好きでロマン主義なお前でも分かる感受性のあるものだよ」と煌は淡々と答えた。

 「俺はアーティストなんだ、音楽が好きなんだ!メルヘンでもロマンでもねぇ!そんなガキでもねぇ!」と、興奮する伊吹に、「音楽で文学を馬鹿にして良いと思ってるのか?!やんのか?!」と煌が躍起になって応戦する。

 「じゃあ、その意味ってのを皆で探しに行こうよ!」

 二人の顔を交互に見ながら、苦笑いを浮かべて勉は言う。

 それでも収まらない二人の手をそれぞれ取って、勉が負けじと笑顔を向ける。

 「平和が一番だよ!平和が、ね!皆で行こう!」

 ──はぁ。まあ、人数が多い方が色々な価値観を得られて良い訳ではあるが……。ともあれ大事な門出、気分良く行きたい。

 「分かったよ、行こう三人で」と、伊吹は頭を掻きながら面倒そうに言った。

 「そうだね、それが良い」と、己の腕を胸辺りで組んで頷く煌。

 ──果たしてこいつと居て感慨に浸る余地はあるのか、不安だ。いや、集中だ。俺は何としてでも最高の曲を作るんだ!今度こそ!

 

 集落を囲む四方の山のどれか、そしてどこか。空間僅かばかりに酷く擦り切れ黒い穴になった様な紋様が現れた。何か開く大きな風穴を風が強く突き抜ける様なくぐもった低い音を漏らしていた。

 「記憶干渉も当然上手く行っている様で良かった。後は上手くやれよ煌。残念だか私達にはもうあまり時間をくれないみたいだ、この世界[#「世界」に傍点]というものは。どいつもこいつも」

 現れた紋様の中で、白い仮面に赤いクエスチョンマークがその黒穴の中で、呟きをユートピアに吐き出した。

 紋様はやがて、元の空間となった。

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