第23話 ノロイを解く

 三十代後半の女性、氷室さんはサービス業の営業職として長年同じ会社で働き続けていた。

 ある日、コツコツと積み上げていった成果を評価されたのか、氷室さんは上司から係長への昇進を内々で打診をされた。

 結婚して家庭に入るよりも働き続けてキャリアを積みたいと考えていた氷室さんにとっては願ってもいないチャンスだ。

 しかし、その打診を受けてから間もなく氷室さんの妊娠が発覚した。

 父親となる相手は学生時代から交際している恋人の平田さんだった。

 平田さんとは大学を卒業してから十年以上同棲している。

 お互い籍を入れるつもりはなかったが、一生を共にできるパートナーとしての絆は強固で、事実婚状態と言ってよかった。

 氷室さんは産むべきかどうか悩んだ。

 年齢的にも母親になる最後のチャンスかもしれなかった。

 しかし、出産に育児となれば会社を長期間離れる事になり、その結果掴みかけた係長昇進のチャンスをふいにしてまうだろう。

 悩みに悩んだ挙げ句、氷室さんは中絶を決意した。

 平田さんも氷室さんの考えを尊重してくれた。

 同じ部署で働いていた信頼できる同期入社の男性、藤田さんを除いて、会社には妊娠の事実は秘密にした。

 有給休暇を取得した金曜日の午前十時頃。

 氷室さんは婦人科医院で日帰りの中絶手術を受けた。

 

 その翌日から氷室さんは、毎晩悪夢を見るようになった。

 

 真っ赤な空の荒涼とした砂漠で、両手に抱えた黒焦げの胎児を氷室さんに向かって差し出す、痩せこけた裸の老婆に「ひとでなし」と、しわがれた声で淡々と責め続けられる夢だ。

 その内、夢の中の老婆の声が起きている間にも聞こえるようになった。

 仕事中、電車での通勤中、入浴中、映画の鑑賞中、時も場所も選ばず、ふとした瞬間耳元で「ひとでなし」としわがれた声が聞こえるようになった。

 

 そんな声に怯えながら生活していたある朝、住んでいるマンションのごみ捨て場に燃えるゴミの袋を持っていくと、他の住人が置いていったゴミ袋に紛れて黒焦げの胎児が置かれているのが見えた。

 悲鳴を上げながら自分の部屋に戻った氷室さんは嘔吐を催してトイレに向かった。

 洋式便器の蓋を開けると、トイレの水溜まりに黒焦げの胎児が浮かんでいた。

 思わずその胎児に向かって反射的に吐瀉物を吐き出した瞬間、抑えこんでいた罪悪感が一気に溢れだし、気づくと氷室さんは狂ったように叫び声を上げていた。

 ベッド中で布団にくるまりながらその日は「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と、夜になるまで呟き続けた。

 

 会社に行ける精神状態ではなくなった氷室さんはしばらく仕事を休養する事にした。

 昇進のために子供を諦めたのに、結局は会社に行けなくなり、そのチャンスすら駄目にしてしまうのか。

 こんなことなら……。

 氷室さんは後悔で毎日涙が止まらなかった。


 とある日、唯一会社内で妊娠の事実を打ち明けていた同期の男性である藤田から、お前の事が心配だから様子を見に行かせてくれと電話があった。

 氷室さんは了承し住所を知らせた。

 その日の内に藤田は氷室さんの部屋にやってきた。

 営業の外回り中に立ち寄ったという事だった。

 リビングのソファーに招いた藤田は眉間に皺を寄せ深刻な顔をしながら「少し痩せたんじゃないか?」そう言った。

 氷室さんは素直に心配してくれた事が嬉しかった。

 少し心が軽くなった氷室さんは中絶した後に起こった事を全て打ち明けた。

 藤田は氷室さんの顔を見つめながら、深刻な顔でその話しに聞き入っていた。

 しかし、しばらくするとその深刻な顔は崩れ、藤田の口角が上がっていく。

 眉間の皺は伸び目尻が下がる。

 緊張が解放されるかのように藤田は満面の笑顔になった。

 抑えきれないと言った雰囲気で口から声が漏れていた。

 噛み殺した笑い声だった。

 口を手で抑えながら、肩を震わせ藤田は思い切り笑った。

 これはどういう反応なのか?氷室さんはただ戸惑うしかなかった。

 笑いが収まった藤田は天井を見上げ溜め息をつくと、顔を元に戻し氷室さんを見つめながら「効果てきめん!」そう言った。


「いやぁ、呪術師にお前が水子の霊に呪われるようにって頼んでたのよ。妊娠して辞めてくれると思ったら下ろして仕事続けるって言うからさ。今度は精神的に追い込んで辞めさせるしかないって思ったんだ。男の俺を差し置いて、何で女のくせに先にお前が出世するんだよ。おかしいだろそんなの。だから辞めてもらおうと思ったわけ。効果てきめんだね!残念でした!もうお前の出世はないよ!」

 藤田はそう捲し立てた後、立ち上がり部屋から足早に出ていった。

 氷室さんは頭が真っ白になりただ呆然とするしかなかった。

 

 結局氷室さんは復帰を果たせず会社を辞めることになった。

 塞ぎこみ、部屋にただ閉じ籠るだけの生活になった。

 そんな氷室さんを優しく、そして辛抱強く支えてくれたのは平田さんだった。

 氷室さんは、藤田からかけられた呪いの事を泣きながら平田さんに話した。

 平田さんは「呪いをかけられたんなら、呪いを解けばいいだけだよ。呪いが解ければ前に進めるよ」そう言った。

 氷室さんはお寺で水子供養することにした。

 供養をすると氷室さんの中にあった罪悪感は次第に薄くなっていって、しばらくすると心が軽くなった。

 そして悪夢を見ることも、おかしな事が起こる事も無くなったそうだ。


「供養してくれた住職さんから聞いた話しなんですけど、水子の呪いとか祟りってあり得ないそうなんです。赤ちゃんは純粋だから人を恨む気持ちなんて持てないって。だから藤田が頼んだ呪術師はインチキ。インチキな呪いは跳ね返って、呪いをかけた方に帰っていくらしいですよ」

 氷室さんはそう言って笑った。

 

 氷室さんは中小のリサイクル企業の営業職として近々社会復帰する予定である。

 

 

 

 

 


 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

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