第21話 決別

 埼玉県に住む四十代の女性、羽田さんは二十六歳の時に結婚した元夫と結婚二十年目の年に離婚した。

 元夫はモラルハラスメント体質だった。

 羽田さんの振る舞いや言動に気に入らない所があれば、家庭内だろうが出先だろうが所かまわず暴言を浴びせてきた。

 一番辛かったのは友人たちと休日に会うことも制限され、出掛けるのに元夫の許可がいる事だった。

 しかしその許可もなかなか下ろされる事はなかった。

 家事を完璧にこなせていないのに出掛けるなんて妻としての責任を果たしていない。そんな状態で外出など許さない。そんな事を言われ続けた。

 最初は黙って耐えていた羽田さんだが、早い段階で我慢の限界を迎えていた。

 いつしか元夫に対して強い言葉で反撃するようになり口喧嘩が絶えなくなった。

 一人息子の前でも何度も喧嘩をした。

 息子には悪いことをしたと羽田さんは後悔している。

 そんな酷い家庭環境だったにも関わらず息子は、ぐれることなく良い子に育った。

 そんな息子が大学入学のため家を出て寮に入った事を契機にして、きっぱり元夫と縁を切ろうと決意した。

 元夫に離婚を切り出すと意外なほどあっさりと受け入れられた。

 外に新しい女が出来ていたというのだ。

 寝耳に水だったが、それはそれで羽田さんにとってかえって幸いだった。

 心置きなく縁を切らせて頂ける。そう実にスッキリとした気持ちになったそうである。

 

 離婚後は実家に戻った。

 実家には母親が一人で暮らしていた。

 父親は十年ほど前に癌で亡くなっていて、妹は家を出て東京で家庭を持ち暮らしていた。

 羽田さんと母親の二人暮らしだ。

 年老いた七十代の母は随分とやつれて見えた。

 それでも元気いっぱい家事をすいすいとこなしてる姿を見て羽田さんは頼もしい気持ちになった。

 自分もまだまだ老け込むのは早い。

 元夫に禁止されていたパートを始めよう。なんなら新しいパートナーもみつけたい。

 心機一転新しい生活に胸が踊った。


 ある日の深夜だった。

 自室で寝ていた羽田さんは叫び声で目を覚ました。

 どうやら別の部屋で寝ている母親が叫び声を上げているようだ。

 何を言っているかは聞き取れないが、とてもヒステリックな金切り声を上げている。

 ひょっとして泥棒でも侵入したのか。

 羽田さんは恐怖を感じたが、母親を放っておく訳には行かない。

 恐る恐る母親の寝室に向かう。

 下の隙間から明かりが漏れ出るドアの前に立つと、母親が何を叫んでいるのかが、はっきりと聞き取れた。

「靴下くらい自分で用意してよ!死んでまで私を苦しめないで!もう出てこないで!」

 その言葉を聞いて羽田さんの胸は一気に重苦しくなったが、それでも意を決してドアを開け部屋の中に入った。

 ベッドの上で上半身を起こし叫び続ける母親の前に、死んだはずの父親がぼんやりと無表情で立っていた。

 父親は、まるで立体感のない薄い紙のようだった。

 幽霊だと羽田さんはすぐに理解した。

「もう出てこないで!あなたのお世話するために私は生まれきた訳じゃないの!」

 父親の幽霊に向かって母親は叫び声を上げ続けていた。

「お母さん!」羽田さんが呼び掛けると母親は我に返ったかのように、叫び声を上げるのをやめて羽田さんの方を見た。

 母親は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 何を言ってあげればいいのか羽田さんは分からずに

ただ立ち尽くすしかなかった。

 しばらく羽田さんと母親は見つめあった。

 お互いに言葉はなかった。

 父親はいつの間に消えていた。

 一分ほど経った頃、母親が口を開いた。

「ごめんごめん。起こしちゃったね。大丈夫だから安心して」

 優しい微笑みを浮かべながら母親はそう言った。

 羽田さんはただ頷いて、自分の部屋に戻った。

 

 翌日、母親と昨晩の事を話した。

 父親は亡くなってからああやって母親の前に何度も現れるのだという。

 幽霊の父親は何も言わずにただ立ち尽くすだけだが、それでも母親は何か酷く自分が詰られているような気がして、腹が立ち叫び声を上げてしまうのだという。

「あの人が生きてたときにね。まだあんたが小さかった頃は、会社行くときの服、スーツとかワイシャツとかネクタイとか私が全部クローゼットから出して用意して置いておかなくちゃいけなかったのよ。ある日ね、靴下が用意してないぞってお父さん怒るわけよ。私ねその時、風邪をひいててフラフラだったのによ!それで腹立ってその時初めてお母さんね、お父さんに怒鳴ったの」

 母親はそんな昔話を堰をきったように語った。

 父親の幽霊が現れる度にその時の事を何故か思い出し叫んでしまうのだという。

 自分が物心ついた時には父親も亭主関白では無くなっていた気もするし、娘には常に優しくしてくれていて悪印象など無かったのだが、そんな出来事もあったのかと、羽田さんは父親に対して少し落胆する気持ちが沸いてきた。

 それと同時に母親に対する同情の想いも沸いてきた。

 羽田さんは母親に「辛かったね」そう言った。

 母親は笑いながら、

「あなたの元旦那の方が酷かったじゃない。あれに比べればマシよ」

 そう言って羽田さんの肩をポンと叩いた。

 羽田さんも笑った。

 その時、母親に対して今まで抱いたことのない気持ちが羽田さんに芽生えた。

 同じ苦しみを乗り越えた「同士」じゃないか。そう思ったそうだ。


 二人はその後、父親の幽霊をどうするかについて話し合った。

 父親には悪いがもう出てきて欲しくはない。

 神社で御札を買い母親の寝室に張り付ける事にした。

 それ以来、父親の幽霊は出てこなくなったそうだ。

 


 

 

 

 


 

 

 

 


 

 

  

 

 



 


 

 

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