第18話 謝罪物件

 飲食店経営の五十代男性、沼澤さんは新たに中華ダイニングバーを開店するために、元々は居酒屋だったという居抜きの物件を買い取った。

 商店街に面した十五坪ほどのこじまりとした店舗だ。

 優しく暖かみのある白っぽい木製のカウンター、ブラウンのシックな木目調の壁。

 和風ではあるがモダンな雰囲気で、イメージしていた物と近かったため、内装に関してはリフォームをあまりせずに使用出来そうな所が、この物件を買う決め手となった。

 

 開店準備期間中のことだ。

 夜の二十二時頃、厨房施設の動作チェックや、調理をするのに何か不足している事はないか、メニューをどうするかなどについての打ち合わせを、料理長として働く事が決まっていた台湾人の男性と店舗内で行っていた。

 カウンターに座り、持ち込んだ缶ビールを飲みながらの、いささか砕けた雰囲気ではあったが、ビジネスパートナーとも言うべき男二人きりの、中身の濃い真剣な話し合いだった。

 そんな最中、突然店舗内に男の高く上ずった叫び声が響き渡った。


───大変申し訳ございませんでした!


 誰かが何かに謝っていた。

 沼澤さんも料理長も思わず言葉を失った。

 二人とも真顔で黙って顔を見合わせ、しばらく沈黙した。

「外から聞こえた?」

「いや、この中のような気がする」

「そうだよな……」

 店舗の外は夜遅くになっても人通りは比較的多く、通行する人々の声は静かにさえしていれば微かに漏れ聴こえては来るが、余程の大きな音でなければ、はっきりとした声が外から聞こえることはない。

 しかし謝罪の声は二人の耳に、言葉のひとつひとつが明瞭に聞こえてきたのだ。

 どう考えても店舗内から発せられた声だった。

 二人以外に誰かがこの店舗内にいるというのか。

 もしかして……。

 沼澤さんは嫌な予感がした。

 押し黙ったままの二人の沈黙を切り裂くように再び叫び声がした。


───本当に本当に申し訳ございませんでした!

 

 どこから声がするのだろう。

 沼澤さんは辺りをキョロキョロと見渡す。


───本当に本当に申し訳ございませんでした!

 

 三回目の謝罪が発せられたその時、キッチンとホールを行き来するために開けられた出入口スペースに吊るされた、前の店が残していった白い布製の短い暖簾が沼澤さんの目に留まった。

 キッチン側からホール側に向かって押されるように暖簾がはためいていたのだ。

 沼澤さんは立ち上がり、キッチンとホールを繋ぐ出入口が正面から見渡せる場所に移動し、そこをじっと腕組みをしながら見つめ続けた。

 しばらくして四回目の謝罪が発せられたとき、人の形をした黒い影が、真ん中やや下あたりから、ホール側に向かって折れ曲がったのを沼澤さんはその目ではっきりと見た。

 黒い影はお辞儀をしているのだと沼澤さんは一目見て理解した。

 暖簾がはためいたのは、黒い影の最上部、おそらく頭部が暖簾にぶつかったからだろう。

 嫌な予感は的中した。

 この店舗は「出る」物件だったのだ。

 沼澤さんは舌打ちをひとつ鳴らすと、急いで料理長に説明して、その日の打ち合わせは切り上げる事にした。


 後日、沼澤さんは不動産会社の担当者に、あの店舗に入居していた居酒屋で何があったのかを問い詰めた。

 担当者はあっさりと白状した。

 居酒屋は、鶏肉を使った料理でカンピロバクター食中毒を引き起こし、その影響で客足が遠のき閉店に追い込まれていたのだ。

 そして調理を担当していたスタッフが責任を感じたのか自殺したのだという。

 謝っていたのはその自殺した調理スタッフだったのだろうか……。

 沼澤さんは自分のリサーチ不足を悔やんだが、もう後には退けないので、お祓いをしてあの店舗で予定通り中華ダイニングバーを開店することに決めた。

 幸いお祓いの効果があったのか、謝罪の声も聞こえなくなったそうだ。

 

 沼澤さんの新規店舗開店準備のためのチェックリストには「心霊現象」という項目が新たにひとつ加わったという。

 

 

 

 

 



 

  

 

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