第17話 スパイシー物件

 関東のベッドタウンに住む仁村さんの自宅から徒歩で五分ほど行った場所に一軒の空き家がある。

 黒い瓦の屋根に年季の入った茶色いトタンの外壁。二階建ての古い一軒家だ。

 仁村さんが引っ越してきた時には、八十代のお婆さんが一人で住んでいたが、数年前に亡くなってからは、もぬけの殻状態だった。

 仕事の都合で関西地方に暮らしているという息子さんが一応は家を引き継いだようだが、管理は行き届いているとは言い難い状況だった。

 このままいけば朽ち果てる一方なのは目に見えてきており、倒壊のリスクなどが近所の人達の懸念事項になっていた。

 

 とある土曜日の午後三時頃、仁村さんが犬の散歩の途中に空き家の前を通りかかると、家の中から食欲をそそるような魅惑的な匂いが漂ってきて、仁村さんの鼻腔を刺激した。

 カレーだ。カレーの良い匂いだった。

 飼い犬にも刺激的な匂いなのだろうか、空き家に向かって激しく吠え出した。

 しかし何故、誰も住んでいない家からカレーの匂いが漂ってくるのだろう。

 仁村さんは思わず空き家の前で立ち止まって考えこんでしまった。

 他の家から漂ってきた物と勘違いしたのだろうか。

 いや違う。確かに匂いはこの空き家から漂ってきている。

 もしかしたら売却されて誰かが新たに住み始めたか、息子さんが来ているのだろうか。

 そんな事を考えていると、空き家の隣に住む中年の女性が外へ出てきて、顎を空き家の方にしゃくり上げながら「ねぇ。その家から変な匂いしない?」と声を掛けてきた。

 仁村さんが、「カレーの良い匂いがしますね」と答えると、女性は眉間に皺を寄せて怪訝な顔つきなった。

 

 匂いにも人によって感じ方の違いがあるだろう。

 この世の中にカレーの匂いが変な匂いだと思う人がいたとしても、何もおかしい事ではない。

 そんな風に頭の中で納得させながら、曖昧な作り笑顔を仁村さんは作るしかなかった。

「私の家の中にも匂いが入ってきちゃって。警察に通報したほうがいいかしらねぇ」

 そう言いながら女性は眉毛を八の字に下げた困り顔で家の中に戻っていってしまった。

 何を大袈裟な事を言ってるのだろう。仁村さんは首をかしげた。

 その間もカレーの良い匂いが仁村さんの鼻腔を刺激し続けていた。

 ここでずっと立ち止まっていてもしょうがない。

 放置している物件特有の何かがあるのだろう。

 そう半ば思考を停止させた雑な結論を導くと、その場に頑なにへばりつきながら空き家に向かって吠え続ける飼い犬を無理やり引っ張って、仁村さんは散歩を再開した。

「あぁカレーが食べたいなぁ!」

 完全にカレーの口になっていた。

 足取りで少し気分が高揚しているのが分かった。

 

 翌日、また犬の散歩をしようと外へ出て、しばらく歩いていると、空き家の前に停車しているパトカーと救急車、野次馬とおぼしき人だかりが見えた。

 何事かと思いながら急いでその場に行き、仁村さんは顔見知りのご近所さんに事情を聞いた。


 空き家の中で、首を吊って自殺したと思われる身元不明の遺体が発見されたという事だった。

 死後数日は経っていると思われる酷い状態だったと、警察に通報した第一発見者の町内会長の男性が話していたという。

  

 仁村さんの頭にひとつの考えが浮かんだ。

 昨日嗅いだ、カレーの良い匂いだと思っていたあの匂いはもしかして死臭だったのか?

 仁村さんを急激な不安が襲う。

 死臭はとんでもない悪臭だと聞いたことがあるが…。

 仁村さんは誰に話し掛けるという訳でもなく、ただ虚空に向かって「死臭ってカレーの匂いがするんですかぁ?」と間抜けな声を気づくと発していた。

 野次馬のご近所さん達が一斉に仁村さんに不審の眼差しを向けた。

 その中の一人、昨日話した空き家の隣に住む中年女性が「あなたまだそんな事言ってるの?そんな事言ってるのあなただけよ。みんな臭い臭い言ってたのに」そう呆れたように仁村さんに言った。

 仁村さんはようやくそこでカレーの匂いだと感じていたのは自分だけなのだと気づいた。

 何故自分は死臭をカレーの匂いだと感じたのか。

 上手く説明出来ないが、仁村さんは何かに自分が取り憑かれてしまったかのような感覚に陥って眩暈を起こしそうになった。

 自分の事が心底恐ろしくなった。

 仁村さんはその場を逃げるように立ち去り、散歩は中断して自宅に引き返したという。

 

 その日以来、仁村さんはカレーの匂いを嗅ぐと、腐乱した茶色のドロドロとした液体が人間の体をかろうじて成しているかのような遺体を想像して吐き気を催してしまい、カレーを食べられなくなってしまったという。

 

 さて、この話しが怪談かどうかは微妙な所ではある。

 単に仁村さんが、嗅覚に異常が現れる何らかの病気になってしまっただけの可能性もあるからだ。

 しかし、嗅覚の異常が現れたのはこの時だけであると仁村さんは申告している。


 後日談だが、空き家の中で発見された遺体は、空き家とはまったく縁もゆかりもない、勝手に空き家に上がり込んだ五十代の男性の物だと判明したそうだ。

 飲食店に勤務していたらしいが、カレーを扱っていた店であったかは分からないという。

 

 空き家は未だそのままの状態で残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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