第13話 鏡よ鏡よ鏡さん

 今から五年ほど前に筑紫さんという飲食店勤務の男性が体験した話しだ。

 筑紫さんは当時、恋人のクミさんと埼玉県のマンションで同棲していた。

 クミさんは繁華街にある小さな美容院で働く美容師で、筑紫さん曰く、明るく屈託のない性格をしていて、目が細まって無くなってしまう笑顔がとてもかわいらしい人だったという。

 筑紫さんはクミさんにそんな笑顔が好きだと何度か伝えたことがあった。

 しかしクミさんは「自分ではあんまり好きじゃないけどね。笑っても目がパッチリしてるほうがいい」と言っていたそうだ。

 

 ある日、クミさんはハンドミラーを手に持って仕事から帰宅してきた。

 美容室の二十代の女性のお客さんから貰った物だという。

 見れば量販店などで売られていそうな、丸い鏡とプラスチック製であろう枠や取っ手で出来た安っぽい品物で、特別な装飾などが施されている訳でもなかった。

 イラストや文字も書かれておらず、宣伝用のノベルティグッズなどでもなさそうだし、どうしてそんな物をわざわざ譲ったり貰ったりするのだろうと疑問が沸いてくるような品物だった。

 クミさんが普段から持ち歩いているコンパクトミラーは壊れていなさそうだったし、部屋にはテーブルに置かれた小さなスタンドミラーや姿見もちゃんとある。

 別にもうひとつ鏡があったところで困りはしないのだが、鏡を譲り受ける理由はどこにもないように思えた。

 そんな素朴な疑問を筑紫さんは何気なくクミさんに伝えた。

「なんかね、この鏡で自分の顔を見ると、凄く綺麗に見えるんだよ」

 そうクミさんに言われた筑紫さんは、美容への意識が高い女性だからこそ分かる、何か特別な性能がそのハンドミラーにはあるのかもしれないとその時は納得したのだという。


 しかしその日を境にクミさんの様子がおかしくなっていった。

 貰ったハンドミラーを肌身離さず持って、四六時中自分の顔を眺めるようになったという。

 メイクをしている時も、スッピンの時も、テレビを見ている時も、料理をしている時も、食事の時も、掃除をしている時も、起床してから就寝するまで、仕事をしている時以外はあのハンドミラーを手に持って、数分に一度の頻度で自分の顔を眺めるようになったのだ。

 鏡を見始めると五分ほど顔を眺め、一度見るのを止めても、また数分後に鏡を見る。といった様子だった。

 コンビニへの買い物などちょっとした外出時や、お風呂やトイレにもあのハンドミラーを持って行き始めた時に、筑紫さんはクミさんの行為が病的だと感じ始めた。

 なんとか止めさせたいが、その前にハンドミラーで自分の顔を見たらどうなるのか筑紫さんは確かめる事にした。

 もし何の変哲もないただの鏡で、自分の顔がただいつも通り映っていたとしたら、それがクミさんが何らかの心の病を発症している証拠になると考えたからだ。

 

 日曜の夜、部屋で夕食を食べた後、筑紫さんはハンドミラーを貸して欲しいとクミさんに頼んだ。

「うん!いいよ!」

 そう言って、満面の笑顔でクミさんは筑紫さんに鏡を手渡した。

 ハンドミラーの取っ手を握った瞬間、筑紫さんの体に悪寒が走り、どんよりとした不安が心を侵食していくのが分かった。

 ただ鏡を見るだけなのに何故か酷く緊張していた。

 溜め息を一度ついてから、筑紫さんは自分の顔をハンドミラーで見た。

 そこに映っていたのは見たこともない女の顔だった。

 顔の右半分の皮膚が焼き爛れ、赤黒い肉が剥き出しになり、左半分の顔の皮膚はブヨブヨとした水ぶくれで覆われている髪の長い女が、鋭い眼光で鏡の中から筑紫さんを見ていた。

 鏡からいったん目を離す。

 筑紫さんは自分が見た物が信じられずに、ただただ唖然とするしかなかったが、しばらくすると冷静さを取り戻し、錯覚だったかもしれないと、もう一度鏡を見た。

 しかし、やはりそこに映っていたのは恐ろしい女の顔だった。


 ハンドミラーを持ったまま再び唖然とする筑紫さんに向かってクミさんから突き刺すような視線が送られているのが分かった。

 見ると、クミさんは右親指の爪を噛み、貧乏ゆすりをしながら筑紫さんを睨んでいた。そして突然叫び声を上げた。

「ねぇ鏡返して!返して!早く!もういいでしょ!早く返して!早く!早く早く早く!」

 さっきまでとても穏やかだったのが信じられないくらいの豹変ぶりだった。

 顔を真っ赤にして唾を撒き散らしながら捲し立てている。

 何か恐ろしい物に取り憑かれているかのようだった。

 筑紫さんは、こんな物をクミに渡してはいけない。この鏡をこのままずっと見続けたらクミは本格的におかしくなってしまう。そう直感した。

 筑紫さんは立ち上がると、ハンドミラーの鏡面をテーブルの角に何度も叩きつけて鏡を細かいヒビだらけにした。


「ぎぃぃぃあああああああ!」


 クミさんが甲高い猛烈な悲鳴を上げた。


「おい!何やってんだよ!てめえ!ふざけるな!糞野郎!ふざけるな!何してくれたんだ!もうお前なんかとは別れる!死ね!その鏡は!その鏡は!うわああああああああ!」

 

 クミさんは半狂乱気味に体をくねらせながら暴言を吐くと、財布も携帯電話も持たずにそのまま部屋を飛び出して行ってしまった。

 筑紫さんは急いで追いかけ部屋に連れ戻そうとしたが、何故か足が震えて動かす事が出来ずに、走っていくクミさんの背中を眺めている事しか出来なかったそうだ。

 

 翌朝、クミさんは憑き物が落ちたかのように落ち着を取り戻した表情で部屋にふらっと帰ってきた。

 どこに行ってたのか?という筑紫さんの問いかけに対して何も答えずにクミさんは荷物をまとめると「もうあなたとは別れる。ここを出ていく」と言って再び部屋から出ていってしまった。

 筑紫さんは引き止めなかったし、それ以来クミさんが戻ってくる事は二度となかった。 

 クミさんに対して未練がなかったかと言えば嘘になるが、それでも自分には手に追えない場所にクミさんは行ってしまったという実感が、筑紫さんにはもうすでにその時点であったし、これ以上関わったら自分も何か恐ろしい事に取り入れられてしまうのではないかという恐怖もあった。

 だから別れるという選択はあっさりと受け入れられたのだという。


 鏡面が粉々になったハンドミラーは燃えないゴミの日に袋に入れて捨てた。

 

 クミさんが今どうしているかはその後一度も連絡を取っていないので、筑紫さんはまったく分からないと言う。

 あのハンドミラーが何だったのか。あのハンドミラーをクミさんに譲った女は何者なのか。そしてクミさんが見ていた鏡の中の物はいったいなんだったのか。今となっては知る由もないし、調べるつもりも筑紫さんにはないそうだ。

 

 筑紫さんは今でもクミさんと暮らしていたマンションに一人で暮らしている。

 

 


 

 

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