第7話 膝の上の人形
剣持さんという男性が小学五年の時、他校から異動してきた後藤という三十代の男性教師が、剣持さんのクラスの担任になった。
後藤は見た目も口調も爽やかな印象を与える教師で、赴任してきた当初は生徒たちからの評判も良かった。
後藤は教室の担任用の机の上に古ぼけた年代物の男の子の人形を常に飾っていた。白い肌に青くパッチリとした目をした、金色の髪がサラサラとした三十センチほどの小さな人形だった。
休み時間や給食の時間になるとその人形を膝の上に置き、頭を撫でるなどして可愛がっている様子だった。
それに対し一部の生徒の間では、少し気味が悪いという陰口が囁かれることはあったが、次第に日常の風景として慣れていき、誰もその事を気にする事は無くなっていった。
授業は半日で終了し午後は帰宅となる、とある土曜日。
剣持さんは後藤から帰宅せずに教室に残るように言われた。
「剣持は絵を描くのが得意だろ。今度授業の教材で絵を使いたいんだけど、それを描くのを手伝って欲しいんだ」
剣持さんは図工の時間に描いた風景画を後藤に褒められたときの嬉しさが甦ってきたと同時に、先生に頼られ誇らしい気持ちになった。
そんな事もあって帰宅せずに絵を描く事に同意した。
教室の一番前の机の上に画用紙と色鉛筆が置かれ、剣持さんはそこに座った。
後藤はその机の正面に椅子を持ってくるとそれに座り、あの人形を膝に置いた。この姿を絵に描いて欲しい。後藤が満面の笑みでそう言った。
剣持さんは、これを授業で使うのか?という疑問を持ったが、言われるがままに書き始めた。
後藤はいつものように人形の頭を撫で始める。頭だけではない。人形の腕、足、胴体。体のあちこちを無言で撫で回す。そして時々ゆっくりと深い溜め息を吐き出していた。
その様子を見て剣持さんは子供ながらに気持ち悪さを感じたが、それを悟られないよう平然を装いながら黙々と絵を描き続けた。
半分ほど描き上げたあたりだっただろうか、剣持さんは膝の上の人形に異変を感じた。
表情が崩れていたのだ。
きょとんとして感情など無さそうだった人形の表情が、今にも泣き出しそうな苦悶の表情を浮かべていた。
眉間に皺が寄り、青い目は平べったく押し潰され、唇を思い切り噛みしめていた。
そんな事には気づかずに後藤は人形を撫で回し続ける。
人形の表情はどんどんと崩れていく。
泣き出しそうな表情から次第に、見たこともない恐ろしい形相に変わっていく。
左の目は左斜め上に思い切り吊りあがり、右の目は大きく見開かれ白眼を剥き、口はあんぐりと大きく開かれ、そこからは涎のような液体が垂れていた。
あまりのことに動揺を隠しきれなくなった剣持さんの色鉛筆を持つ手が震える。
もうだめだ…。
そう思った剣持さんは後藤に人形の表情の異変と、これ以上描くのは無理だという事を思いきって伝えた。
「人形はきっと僕に可愛がられて嬉しすぎてそうなっちゃったんだ。だから大丈夫だよ剣持。このまま最後まで描き続けなさい。恐いか?最初は誰だってそうなんだ」
そう言って後藤は人形を撫で回し続けた。
震える手を押さえながら、剣持さんはやっとの思いで絵を完成させた。自分が描いたという事実が恐ろしくなるような、歪な絵だった。
膝の上の人形の表情はいつのまにか元に戻っていた。
描き上げた絵を見て後藤は満足気な顔をした。
「最初にしては上出来だな。もう帰っていいぞ」
そう言われた剣持さんは逃げるように教室から出ていこうとしたが、後藤は強く肩を掴み、腰を屈め、剣持さんに目線の高さを合わせこう言った。
「人形がああなった事は誰にも言うなよ。言ったらきっと痛い目に合うからね」
後藤が笑顔だったのが恐ろしかったと剣持さんは回想する。
それから小学校を卒業するまでの間に、剣持さんは後藤から絵を描くよう何度か要求された。
描くのは決まって後藤と膝の上の人形だった。
人形はその度に表情を崩した。
口をパクパクとさせ、何かを剣持さんに訴えかけているかのような時もあったという。
それから十数年後、小学校の同窓会に剣持さんは出席した。
同級生たちと後藤の話題になった。
剣持さんが、「後藤って人形を膝の上に乗せて撫で回しいてるのが気持ち悪かったよな」と言うと、同級生たちの誰一人、その事にピンと来ていない様子だった。
そして同級生の一人がこう言った。
「そんな人形あったっけ?後藤の膝の上に乗ってたのって剣持だろ。お前後藤にだいぶ可愛がられてたよな。後藤の膝の上で頭を撫でられながら給食、食ってたもんな」
その同級生の言葉には皆が賛同し、その場がどっと盛り上がったという。
剣持さんは、後藤と人形の事はとにかく忘れるようにしているという事だ。
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