第3話 先輩後輩

 じっとりとした空気が体中にまとまりつく、寝苦しい夏の午前三時。

 四十代の会社員宇田川さんは、リビングのソファーで目を覚ました。

 一時すぎに帰宅しソファーに腰を下ろしたところで、スーツを着たまま眠りに落ちた。

 三日連続で終電ギリギリまで残業していた。その疲労も、だいぶ蓄積していたようだった。

 

 入社四年目の若手社員、江崎が大きなミスをやらかした。

 決して少なくない自分の業務をこなしつつ、そのリカバリー作業までも残業してやらなければならなくなった。

 宇田川さんは大きな責任を感じていた。入社以来、江崎の教育係的なポジションにいたからだ。

 江崎の大きなミスはこれが最初ではなかった。

 これまでにも何度も大きなミスをおかしていた。

 その度に江崎と一緒になって同僚や上司や取引先に頭を下げ、そしてリカバリーしてきた。

 時にはお前の教育がなっていないからだと上司から怒鳴られたこともある。

 それでも宇田川さんは江崎を見離さず、根気よく面倒を見てきた。いつか自分の手を離れ一人前になってほしい。そう本気で思っていた。


 溜め息をひとつ吐いて立ち上がると、宇田川さんは着替えるためにクローゼットがある寝室に向かった。

 寝ている奥さんと娘さんを起こさないように、足音を立てないようにゆっくり階段を昇る。

 登りきった所で、寝室のドアの前に立っている黒い影が目に入った。

 奧さんか娘さんが起きていたのかと最初は思ったが、二人よりも明らかに背が高い。

 ぼんやりとした影がやがて、人感センサーライトの薄明かりに照らされてはっきりとした実像を現した。

 スーツ姿の江崎だった。

 虚ろな目をしながら無表情で宇田川さんを見ていた。

「江崎お前何やってるんだ」

 思わずそんな言葉がこぼれた。

 何の反応も返さず江崎はただ立ち尽くしていたが、しばらくすると赤い血が鼻の穴の両方から滴り落ちるのが見えた。

 この暗がりで血の赤色がはっきりと認識出来たことに宇田川さんが違和感を覚えた瞬間、江崎はニヤッと笑うとその場からすっと消えた。

 疲労からついに幻覚を見たか。早く着替えてそそくさと寝よう。そう思うと同時に、「自分はこの仕事に向いてない。自分がここまで駄目な人間だとは思っていなかった。自分の事が本当に嫌になる。消えてしまいたい」などと、今回のミスが発覚した後に弱音を吐いていた江崎の姿が思い浮かんだ。

 変な行動に走らなければいいが。そんな一抹の不安を抱えながら宇田川さんはパジャマに着替えてベッドに入った。


 翌朝、出勤するとオフィスには江崎の姿があった。宇田川さんはその姿を見て胸を撫で下ろした。

 江崎は自分のデスクの前で仏頂面でなにやら忙しなく手を動かしている。

 「おはよう」と宇田川さんが声を掛けたが江崎は無視し、黙々と手を動かし続ける。どうやら私物などを片付けている様子だった。

 その間にも宇田川さんは声を掛けるが江崎は一切答えようとしない。

 すると先に出勤していた同僚の一人が宇田川さんの隣に立った。そして「江崎辞表出したらしいよ。いきなり今日でもう辞めるって言って聞かなかったらしい。部長も仕方なく認めたんだ」そう教えてくれた。

 退社日は二週間後ということになったが、残りの日数は全て有給休暇の消化に当てるため、今日が最後の出勤日となるということだった。

 江崎は片付けが終わると、荷物を持って宇田川さんたちに無言で頭を軽く下げるとそのままオフィスを出ていこうとした。

「どこ行くんだ!今日はまだ引き継ぎとかいろいろやらなけゃ駄目だろ。それにちゃんと挨拶くらいしろよ!」

 宇田川さんの声が自然と荒ぶる。今まで散々面倒を見てやったのに。どれだけお前のせいで苦労しきたと思っているんだ。それなのに。

 まったくもって釈然としない、理解に苦しむ江崎の行動に怒りが込み上げてくる。

 宇田川さんは背を向けて立ち去ろうとする江崎を追いかけて腕を掴んだ。

「お前、なんだよその態度は!」

 すると江崎はくるっと宇田川さんの方に向き直り、顔を真っ赤にしながら怒鳴った。

「あんたの教え方が悪いから俺がこうなったんだ!お前が無能なのが全部いけないんだ!もっと優秀な人に教えてもらっていたら俺だってもっとちゃんと仕事出来たのに!」

 甘ったれるな。誰のおかげでお前がこの会社でやってこれたと思っているんだ。宇田川さんは思わずカッとして、近くにあった、中身が入った状態の緑茶のペットボトルを掴むとそれで思い切り江崎の顔面を殴打した。

 江崎は悲鳴を上げながら顔を手で押さえうずくまった。しばらくして立ち上がると手を顔から放し、虚ろな目で宇田川さんに顔を見せた。

 江崎の鼻の穴の両方から真っ赤な血が滴り落ちていた。そしてニヤッと笑った。

 数時間前、暗がりの寝室のドアの前に立っていた江崎の姿と一緒だった。

 呆然と、再び背を向けオフィスから立ち去る江崎の背中を見送りながら、宇田川さんは自分が今どこに立っているのか分からなくなるような奇妙な感覚に陥った。

 あの時見たのは、この瞬間を予告した物だったのか?

 そうとしか思えなかった。


 同僚が宇田川さんの肩をポンと叩く。

「気持ちは分かるけど暴力はまずいよ」そう言われ我に返った。

 宇田川さんはすぐに自分の行動を悔やみ恥じるような気持ちが沸き上がってきた。

 お前も帰って頭を冷やせと部長から帰宅するように命令された。

 素直に従いその日は自宅で泥のように眠った。


 当然、会社内での暴力沙汰は問題にされたが、口頭による厳重注意だけで特別な処分などはなく、今でもその会社で宇田川さんは働いている。


 その出来事から半年ほど経ち、江崎の事も忘れかけていた頃、宇田川さんは同僚からショッピングモールのフードコートで江崎を見かけたという話を聞いた。

 丼の中に、鼻の穴から滴る血を流し入れながらラーメンを食べていたという。

「それって本当に生きた江崎なの?」

 自分でも何故そんなことを聞くのかと不思議だったが、宇田川さんはごく自然に同僚にそう訪ねた。

 すると同僚は「あぁ」とか「いやぁ」などと歯切れ悪くはぐらかすので江崎の話題はうやむやになり、そのまま違う話題に移ったという。

 それからも定期的に別の同僚たちから、鼻血を流しながら何かをしている江崎の目撃証言が宇田川さんの所に届いている。

 フィットネスクラブで、夜の公園で、旅行先の福岡の街中でと様々な場所で目撃されていた。

 宇田川さんの前にはまだ現れていないそうだ。

 



 


 

 

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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