第2話 顔文字

 二十代後半の女性、池田さんが三年前に経験した話しだ。

 契約社員として経理の仕事をしていた池田さんだが、会社の都合である日突然雇い止めをされ、その頃は金に困っていた。

 目前に迫った家賃の支払いが出来そうにない。

 切羽詰まった池田さんは、すぐに現金が手に入りそうなパパ活をして収入を得る決意をした。

 パパ活専門のマッチングアプリに登録し、そこで知り合った、すぐに会えるという五十代の「パパ」と顔を合わせることになった。


 今までの人生では縁がなかった、待ち合わせ場所として指定された高級ホテルのラウンジに現れたのは、清潔感があり、物腰も柔らかな、歳のわりに若々しい印象の男性だった。

 軽い世間話をした後に具体的な金銭の話しに移った。食事デートをすると三万円、それ以上の、いわゆる体の関係を持てば五万円を都度貰える。池田さんは覚悟を決めた。


 と、その時。池田さんのスマホから、メッセージの受信を知らせるラインの通知音が鳴った。池田さんはとりあえず一旦無視したが、数秒後に再び通知音が鳴った。そしてまた数秒後に通知音。そのようにして数秒ごとに繰り返し繰り返し通知音が鳴り続けた。

 あまりのことに男性が「緊急の用事なんじゃない?確認しなよ」と言うので、池田さんは戸惑いつつハンドバッグからスマホを取り出しラインのトーク画面を開いた。


 デタラメな文字列で書かれた知らない名前からのメッセージが大量に送られて来ていた。


〈今なら〉

〈まだ〉

〈ひき返せる〉

〈あなたには〉

〈後悔〉

〈してほしく〉

〈ない〉

〈その男は〉

〈だめ〉

〈私は〉

〈後悔〉

〈とっても〉

〈してる〉

〈だめ〉

〈だめ〉

〈だめだめだめだめ〉


 池田さんはスマホの画面を見ながら固まってしまった。そして胸が一気に不安で重苦しくなった。

 それからしばらくして、やっとの思いでスマホから顔を上げると、池田さんは男性の顔を見た。

 さっきまでなんともなかった顔のあちこちに〈HIV〉という文字が、まるでタトゥーを彫ったかのようにいくつも浮かび上がっていた。

 その文字の意味を理解した池田さんはぎょっとして、用事を思い出したと言ってその場から逃げるように立ち去った。


 帰りの電車の中で再びラインを開いたが、あのメッセージはひとりでに消えてなくなっていたという。

 結局パパ活はせずに、両親から借金をすることで家賃は支払い、苦しい時期を凌いだそうだ。


「あの時私を助けてくれた誰かさんが、幸せになってくれてる事を願ってます」

 池田さんは最後にそう語った。

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