7-3.道を選ぶ
――かちっ。
再生が終わる。指がほとんど自動的に操作ボタンを押し、日付の刻まれた音声ファイルを、さまようように開き、流しはじめる。
断片的な再生が繰り返される中で、記憶が――感触を軸とするかつての日々の記憶が、庭の内でかたちを手にしていく。ぼんやりとした人影の群れが、囲われた白い光の下に姿を現していく。
俺の
ここは箱庭のような場所だった。病棟外に出ることのできない、あるいは許可されない、病状の難しいひとたちのために設けられた空間。外界の空気に触れられる唯一の場所、選択肢。
病棟という空間は苦痛と消耗で溢れている。そこでは常に死が近くにあり、まつわる悲嘆や諦めは横たわる誰の中にも潜んでいる。
だから直衛佑はよく庭に出た。ここなら精神が不安定と診断されている自分でも来ることができるし、外から吹き込み循環する外気は停滞の気配を中和してくれる。
自分以外にもそれを感じるひとは多かったのだろう。中庭には常に誰かがいて、笑顔を見せていた。
……けれどやがて、直衛佑はその裏にあるものを感知してしまうようになった。
かちっ。
かちっ。
かちっ。
再生するファイルが切り替わるたび、白い人影が増えていく。
身体の内側に重い死の感触を携えた、けれど微笑みや笑顔を浮かべたひとたちの思い出が、次々と現れる。
誰もが未来への展望を口にした。病が治ったなら、良くなったなら試みたいことについて語った。
その相手は病棟で働く人々であったり、見舞いに訪れた親しい相手だったり、直衛佑であったりした。
どの場合でも、直衛佑にとっては同じことだった。
感覚は遮断できない。耳を閉じても聞くことを完全に拒否することはできないように、感覚は空間に生まれるすべてのやり取りを自動的に拾い上げる。
そのひとたちの在りようから――不調と、この先で迎えるだろう結末の暗示を、望みもしないのに探り当てる。
皆、笑顔だけを残して消えていく。“願い”を口にしながら、しかしその成就を手にすることなく、絶えていく。
誰かのために、己自身のために、時には直衛佑のために向けた笑顔。その記憶だけを、からっぽの直衛佑の胸の内へと残して。
直衛佑が仰木由祈に会ったのはそんな日々のさなかだった。
「母さんが死んだから」
幼い仰木由祈はこともなげな口調でそう言った。
「首に
他人事みたいな言い方。目元には涙のあともなければ、充血や腫れの気配もない。
完璧な演技。取りつくろい。
同じ気持ちが直衛佑の中になかったなら、あるいは気付けなかったかもしれないほど、仰木由祈は無欠に“仰木由祈”を演じていた。両親に望まれた通りの、才能に見合う憎たらしさと強さを持った、頑丈な子どもを。
指先で頬を拭うと、由祈は泣いた。決壊寸前まで
そして言った。
「どうして、私なんかのところに才能は来たんだろ。お母さんがあんなに欲しくて、磨きたくてしょうがなかったものが、私の中にだけあるんだろ」
要らなかったのに。……お母さんの願いごとが叶ってくれれば、それでよかったのに。
それで直衛佑は、死と恵みが実際には同じものであることを知った。
望んだ場所にそれが生じるとは限らない。すべては世界の采配一つで――そしてその世界は、
今この時立ちこめている雲の向こう。そこに、
からっぽだけが、真っ白な虚ろだけが、そこにある。
だから――。
“壊せ”
渇きの底に押し込めていた衝動が顔をもたげる。
庭に立つ幾つもの影がぐらつき、崩れ、死の虚無へと還る。
“壊せ”
今すぐに。直衛佑が“からっぽ”に、摂理にひねり潰されて消えていくひとたちの思い出に、堪えられなくなる前に。
“壊そう”
そこに仰木由祈の声が重なる。
許すような、誘うような、優しさを帯びた声が重なる。
「っ……!」
ぎりっ。
唇を噛む。手の中のレコーダー、傷だらけのレコーダーがきしむ。
踏み止まろうとする俺の思考、それそのもののように
思い出してしまった直衛佑は、もう感覚を無視できない。
ひとが摂理に潰されるその感触に、これ以上堪えられない。
今この一度きりを、由祈を殺して止める一度を選ぶことはできるかもしれない。
でも、そうしたところできっと、……きっと、いつか、直衛佑は。
“壊したい”
そうするだろうという確信がある。堪え続けることに耐えられずに、衝動に屈してしまうだろうという予感がある。
これは避けられない運命だ。直衛佑の行く先に横たわる確かな結末だ。
そんな俺が、ここでいったい何を選べるというのだろう?
選んだとして、そうすることに何の意味があるというのだろう?
頭上を馳せる流星は閃光のような眩しさを放つ。あの輝きを壊していい権利なんて俺にはない。仰木由祈とぶつかって先を目指すだけの価値は、直衛佑にはない。
――ことん。
その時だった。腰掛けたベンチの隣、空席で、それが音を立てたのは。
「――……」
顔を上げ、目を向ける。
感触した通りのものがあった。
硬質な、今まで触れたことのない金属で形作られた、小立方体。
悠乃が肌身離さず、ずっと首から提げていたペンダント。
手に取り、表面に触れる。
間接的に感覚しただけではわからない、無数の傷がそこには刻まれていた。
多くの戦いを経てきたのだと、それでわかった。それほどの長い間、これは悠乃七彩の――あの鋼のような少女の心の支えとして存在し続けてきたのだと。
かちり。
その小立方が、何かを知らせようとするように、小さく鳴って展開した。
「……あるかよ、そんなこと」
思わず、言葉が口を突いて出た。
現れたのはガラス玉だった。ありふれた小さな、しかし虹のような光の反射を内包した、ひび入り、手製の加工を経た、何ということもない子どもの玩具。
ひび割れは大きすぎるし、補強という発想もろくにないようで、ただ提げ紐を付しただけの、壊れかけのビー玉というのがふさわしい。
慣れさえすれば、時間も手間もかからないで、ちゃんとしたものが作れる。――慣れるまで、何度も繰り返して作り続ければ。
この時は、そうもいかなかったのだ。
それでもぎりぎりまで試み続けて、ようやくできた一番いいと思ったものを――あの目に一番似ていると思った綺麗なものを、直衛佑は贈った。
確かにそれを、悠乃七彩は喜んでくれた。
けれど。
「……こんなものを、お前みたいなやつの支えになんかすんなよ」
精一杯吐いた独りごとは、思った通りの悪態には到底ならない。
白い虚ろの光が降る。その陽射しを反射させて、悠乃七彩のすべてが
立ち上がる。ボイスレコーダーと閉じた小立方を、両のポケットに突っ込みながら。
そして歩き出す。庭の外へ。
あいつが待っているはずの――この夏の結末を決める終点、待ち合わせ場所である、最後の識域に向かって。
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