6.それでも君が求めるのなら
6-1.まっぴらごめんだ
午前過ぎ、拠点マンション室内。高く登った太陽から陽射しが注ぎ、一帯の光量をいよいよ増加させはじめる。
値の張る上層物件だけあり、リビングの日当たりは極めて良好。いつどこでも眠れる強靱な体質の仰木由祈とても、その眩しさと、ともなって上昇した室温の不快さは無視しきれない。
寝床から持ち出してかぶっていたタオルケットをのけ、手を伸ばして充電器に繋がれた携帯端末を取ると、気だるげに時刻を確認した。
十二時前。何もなければ目覚めるだろうと踏んでいた通りの時間。
「…………」
端末を持ったままの手で視界を覆い、小さく息を吐く。
しかしややあって身を起こすと、かねてから頭に叩き込んでいた予定の通り、準備を済ますべく立ち上がった。
必要であることがはっきりしていて、かつそれをこなせるのが自分だけだとわかっている場合、仰木由祈は無駄のない動きをする。
着替えを済ませ、食事を摂り、時間の余裕さえ残した状態で、定められた時刻の訪れに備える。
四人がけのテーブル、キッチンから向かって左側の椅子。この一週間あまりですっかり固定となった自分の席に、たった一人で腰掛ける。
待つ間、視線はずっと、端末に表示されたテキストデータに向けられている。やがて迎えのチャイムが鳴らされると、ボイスレコーダー片手、端末を突っ込んだポーチ一つを提げて、人気のない部屋を後にする。
「おはよう、由祈。よく眠れた?」
駐車場に出、待機していた社用車のドアを開けて乗り込むと、マネージャーの牧野小枝が変わらぬ柔らかな笑顔で出迎えた。
うん、と頷いたきり由祈は何も言わず、片耳に挿したイヤホンでレコーダーの再生を聞きながら、走り出す外の風景を眺める。
街の様子にも変化はない。驚くほど何も変哲がない。
私を取り囲む世界は、こんなにも大きく揺れ動いているというのに。
「――こういうもんか。セイゴウセイって」
「うん? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
言いながら、メッセージの着信を告げる端末に目を落とす。手癖で開かれた馴染みのグループウインドウにはしかし、見知らぬ名をともなったアカウントアイコンが三つ。
少し前まで、そこには親しんだ三人の友人の名前があった。だがあの夕方以来、彼女たちの痕跡は身の回りのどこからも消えてしまった。
“現実の整合性”。悠乃七彩から受け取ったテキストデータにはそう説明があった。
現実を運行する諸法則にとって、識域は“実在しない空間”だ。そこでの出来事による影響は現実ではバグとして処理され、その時々の状況に合わせて辻褄合わせがなされる。
『たとえば、現実にいた人間が識域で殺害され、消滅した場合。その人物の痕跡は失われ、“いなかった”ことになるのが通常。しかし、誰かが担っていなければ辻褄が合わない立場や役職があった場合、近しい能力や性質、経歴をもつ別の存在たちが代理でそれを負うことになる』
仕事であれば、同僚たちが分担、あるいは誰かが兼任でこなしていたことになる。社会の多くの人間に認知されている個人であったなら、“その個人がいなかった歴史において、代わりに人気を得ていたであろう人々”がその枠を受け継ぎ、支持やポジションを背負うことになる。
「おはよ、由祈」
「本番がんばろね」
「――――」
「――――――――」
消えた三人に代わり、Luminaとして現場に現れた少女たちのことを、由祈は知らない。
彼女たちの言葉に適当な相槌を打つたび浮かぶ“この三人との思い出”も、由祈は受け入れていない。
しかしそれでも、時間の経過と共に“辻褄”は合わせられる――違和感は薄れていく。
『わすれないで』
テキストデータに記された少女からの指示、その一つをまた目が拾う。
『その時が来るまででいい。あなたのたいせつな人の記憶を、取り落とさずにいて』
衣装、化粧。それらをまとって舞台に上がり、ライブ直前、当日最後のリハーサルをこなす最中でも、その言葉を反芻している。胸元に忍ばせたひび入りのビー玉、オーナメントの感触を、常に意識し続けている。
「いよいよね。いつも通り、ちゃんとできるって信じているけれど……大丈夫? 由祈」
観客の入場が完了し、開始までわずかとなった時刻、控え室。
由祈と二人きりになった折、小枝がかすかな心配をにじませ、尋ねてきた。
他の三人がいる状態で切り出さなかったのは気遣いゆえ。気付けなかった三人と、気付かれないようにしていた由祈への。
「――やっぱり、わかるか。長い付き合いだもんね」
沈黙していた由祈は顔を上げ、苦笑気味に口元をほころばせた。自然な微笑が交わされる――相手はこの業界に足を踏み入れてからずっと、家族のように親しく日々を過ごしてきた人。
「無理に聞こうとは思ってないわ。でも、言うことで楽になるんだったら、吐き出していって」
そう告げる口調も、ともなう仕草も表情も、馴染みのものだ。それらがすべて作り物、入れ替わった怪物が見せている演技だなんてことはあり得ない。間違いなくこの人は、仰木由祈が家族のように思ってきたLuminaのマネージャー、牧野小枝本人だ。
そして、だから、由祈は問うことにする。
「心配してた。小枝さんのこと。弟だっけ、妹だっけ。――病院、行かなくていいの?」
「!」
その一言で、柔らかに笑んでいた小枝の表情がわずかにこわばる。
それで十分だった。これほど露骨な動揺を仰木由祈は見逃さないし、牧野小枝もまた、世話を焼いてきた機微の細かい少女が何を知ったか、今もって察せないような人種ではなかったから。
「……あの子に会いに行ける資格なんて、私にはないわ。同じくらい大切に思っているあなたたちを、私は裏切ったんだもの」
ぽつりと、こぼすように、小枝は答える。
「こんなことになるって、知らなかったんでしょ?」
「知っていたとしても、きっと私は同じことをしたわ。あの子を助けるために言うなりになった。だから、それは言い訳にはならない」
「優しいもんね。小枝さんは」
爪が食い込むほど強く握られた手を見下ろして、由祈は目を細める。
「あと“やれ”って言われたのは、私を舞台に立たせることだけ?」
「ええ」
「そっか、わかった」
頷き、ゆっくりと由祈は立ち上がる。
それで二人きりの時間は終わった。戻ってきた三人の少女たちと声をかけ合い、連れだって、由祈は舞台へと向かっていく。
暗闇の中、遠い高揚の喧噪を聞きながら、位置に付き、そして、
「「「Ah――――」」」
時を裂いて走り出した音と光が舞台を満たし、調和が
歓声、前奏、その中で、磨き上げた身のこなしのままに舞いながら、仰木由祈は記憶に焼き付けたテキストデータの文面をフラッシュバックのように思い出す。
『“狼”は牧野小枝である。人間・牧野小枝本人が自分の意思で情報を流している』
『“狼”は通常、信頼性確保のために逸路が成り代わるものであるが、例外も存在する。成就が強く望まれる“願い”を使って、対象を確実に利用できる場合などがそれに該当する』
『そして、その“願い”は――』
前奏が終わる。少女たちが動きを止め、舞台の中心に立つ由祈に視線を送る。
切りつけるようなステップを踏み終え、顔を上げた由祈の目の前には、スポットライトに照らされたスタンドマイクの輝きがある。
「――――」
すう。
光を仰ぐ無数の観客、彼ら彼女らがいる広大な客席の最奥を眼差しが射抜き、由祈の呼吸に会場全体が同調する。
誰もが望む。待ちわびる。その一瞬を。
切望する。その歌声の到来を。
その一拍、その刹那、場に集う全ての存在が同じ“願い”の下に息を合わせたのだ。
ゆえに、彼女はごく自然なものとして、一つの促しを聞いた。
《歌え!!》
そしてそれに対し、定めていた腹づもりの通りに、仰木由祈はこう答えてやった。
「やなこった。まっぴらごめんだ、そんなのは」
――ぎぃいいいいん!
宣言と同時、トップアイドル自慢の脚力を遺憾なく発揮して蹴り上げたマイクが宙を舞った。
機器に繋がるケーブルを尾のように引きながら光を反射するそれは、非現実的な――まるで空想の中を行くような軌道で高く、高く回転し、横倒しの格好で蹴り足の前方へと墜落した。
予想外の展開に、人々が言葉を失う――失ったかのように静粛となる。
しかしそれは実のところ、次に発される言葉を確かに歌姫へと伝えるために、指揮者によって黙らされただけのことに過ぎなかった。
《――なぜ歌わない!!》
暗闇を裂いて、不意に轟いた
声に続き光の下に現れたのは、手に
豊かに巻かれた白髪と、上等極まりない仕立ての
何もない空中に厳然と立つ現実味のなさを差し置いても、その異様さは明らかだった。
血走る白目、底無し沼のような黒目を剥き、ぎょろつかせながら一帯を
《
激しい怒りをにじませながら、男は再度叫ぶ。
《
「ふざけてるのはそっちでしょ、
一歩も引く素振りを見せず、由祈は切り返した。負けず劣らずの強い怒りを声に秘めて。
脳裏に明滅しているのは、テキストデータの最後の一文――その焼き付くようなリフレイン。
『対象を“狼”として操るための“願い”は、予期せず成就しないよう、
「小枝さんに家族はいない。私の大事な人を騙して、傷つけて作られたステージの上でなんて、絶対に歌ってやるもんか!」
次の瞬間、舞台上に佇む三人の少女の
遅れて響いたのは乾いた銃声。俺をともないこの識域へと降り立った、虹の眼を持つ死神による三発分の執行宣言。
「すまん。一緒にカレー食う約束、破っちまって」
男との間、盾になれる位置に陣取りながら、俺は振り返らずに言う。
由祈は一瞬言葉を詰まらせたが、歯を見せて破顔すると、返す。
「――埋め合わせは、超デカいかき氷とか作れ。皆で囲んで食べられるくらい、デカいやつ」
「それにはわたしもきょうみがある」
軽口を叩く悠乃は鉄面皮ですかしている。招かれざる客に場をぶち壊しにされた男のいらだちは頂点に達し、その視線は今にもこちらを射殺さんばかりだ。
「さっさとかたづけて、詳細をきく」
戦意と共に、悠乃が得物を構えた。装填を終えた二挺拳銃は死の砲口を怪物に向け、昏く冷たい反射光を辺りへと散らした。
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