識域のホロウライト

伊草いずく

1.Hollow White, Starry Sky.

0.プロローグ

0-1.ある片隅で

 望んだあらゆる空想が形になる。

 そんな世界、空間がもしあるとして、「そこに行きたい」と思う人はどれだけいるだろうか?

 空想……心に思い描く“それ”の中にはもちろん、願望、すなわち“願い”が含まれる。

 文字通り願ったことが叶うのだ。空だって飛べれば、後悔した失敗のやり直しだって試せる。

 行ってみたいと思う? 本当に?

 悪い、言い方がまずかった。残り半分の説明も聞いてからにしてくれ。

 空想ということは、そこにはたちの悪いもの、周りに害を振りまくようなものも含まれる。つまり、誰か、それかによって招かれた場合、思っていた形とは反対の経験をする可能性があるってことだ。

 具体的には――。


 §


 悪夢のような、およそ現実のものとは思えない光景が一帯に広がっていた。

 人気ひとけなく暗い、街区がいく数ブロックほどの広大さを持つ空間。

 頼りない街灯の明かりが照らす建造物群を、ぬめる赤桃色フレッシュ・ピンク内粘膜ないねんまく様の体組織がびっしりと覆い尽くし、侵蝕していた。

 辺りは吐き気をもよおす生臭い湿度に満ちている。歯肉に似た、不快な弾力を持つ粘膜がはびこる街路の果てはどこも、見上げるばかりの臓腑の壁によってふさがれている。

「いや……もう、いやあ……!」

 その一角――濃い影がわだかまる路地の奥で、女が一人、うわごとのように感情を吐き出して震えていた。

 少し前まで、自分は確かに見知った場所にいた。時刻こそ遅くはあったが、ごく普通の現代日本の街角を歩いていたはずだった。

 それがふと気付けば、たった一人でここにいた。

 湧き上がる恐怖と混乱の中、もと来た道へ戻ろうとさまよったが、出口は見つからず――代わりに、に出会ってしまった。

「ううっ……!」

 周囲の粘膜から伝わってくる熱。人肌そのものの不気味な生ぬるさに侵蝕され、呼吸を繰り返すほどに、どこからどこまでが自分なのかわからなくなっていく。

 けれどもう走れない。ここで身を縮めて、あれが自分を見失い、執着を捨ててくれるのを祈るほかない。

 だが、そんな都合のいいことは当然起こらない。

 あらゆる空想が力を持つとするならば、生存を望む思いは当然、相反する欲望によって打ち消される定めにあるからだ。

 ぞぞぞぞぞ、じゅるっ。

「ひっ……!」

 不意に響き渡った、水気をはらんだ重量物の立てる接近音。

 恐怖と恐慌のはざま、女は震えながら、しかし耐えられず通りの方角を振り返り――、

 てらつく体表面を明かりに晒した空間のあるじ、そびえる怪物の、捕食欲に満ちたまなざしを真正面から認識した。

『……と、観測できた状況は大体そんなところだ。なにか確認したいことはあるかい、我が娘?』

 通信回線越しの会話に特有、ノイズ混じりの声で、男が穏やかに尋ねる。

 通話の相手――“観測”された空間と異なる場所に立つ少女は、歳に反した幼さの覗く調子で端的に返した。

「じじつかんけいと、時間の

 言葉を紡ぐ声の響きは淡々としている。

「どこまでをたの。それと、なるまであとどのくらい」

『死はまだ確定していないね。ので少し想像が混じるけれども、なって実際にかぶりつかれるまではおよそ一分といったところか。ちなみに、対象識域しきいきへの接続クラッキングが終わるのは四十秒後』

略式りゃくしき宣告せんこくでいく」

『ふむ。人命を考えれば必然の選択だが、攻めるね。表向きの口実シチュエーションは覚えているかい?』

「たまたまわたしをしっていた善意のもくげきしゃによる匿名つうほう」

『うん。緊急対処だから“魔眼”の使用許可は下りていない。ただでさえ縛りプレイだぜ』

「もんだいない。このくらいの相手なら、らくしょう」

 やはり抑揚うすく返した少女の意識の隅で、接続までの残り時間を示すカウントが完了。視界が開け、男から聞いた通りの様相を呈する空間へと転送された。

 街灯の限られた光の中、浮かび上がる白い横顔は精緻。流れる銀の長髪、対照的な黒衣に覆われた体躯は小柄、なれど端正。最も目をく瞳は、なぎの水面、鏡面にも似た灰晶色プリズム・グレー

 戦場を視認するなり、少女は空想を出力し急速落下を開始する。

 出現した座標は希望通り、が起こる路地裏上空、十数メートル地点。

 結果――、

 ――どっ、ぐっじゃあっ!

 身をひねり、外套たなびかせながら繰り出したかかと落としが、間一髪、女と怪物の間に割って入ることに成功した。

 加速度をまとい敵の脳天にめり込んだ合金板ごうきんばん入りのブーツは、空想が支配するこの場においても相応の打撃力および衝撃力を発揮。

 物理法則に準拠した一撃を押しつけながら、しかし少女は反動を受けたふうもなく、ひらりと空中でバック転し離脱、着地する。

 そして振り向かず、呆気に取られている背後の女に向けて告げた。

「おくへ走って。さいしょの扉を抜けたら、ひだり」

「えっ……?」

「でぐち。三十秒でとじる。しにたくなかったらいそいで」

「はっ、はいいっ――!?」

 去る必死の気配を尻目に、灰晶の目は眼前の異形存在を見上げる。

 一言で表すならば、それは牙を持ち屹立きつりつした巨大な芋虫だった。ただし、体躯を構成するのは剥き出したような粘膜の集合体、赤桃色フレッシュ・ピンク。目玉に似た模様は血管、走る静動脈により描かれたもので、うごめく短脚は胎児の手を思わせる。表皮の内で張り詰め、みっしりと空間を埋める重量はすさまじく、地を割りめり込むほど。

 圧倒的な質量差を前にして、しかし少女は怖じない。

 その理由は寸秒の後に明らかとなった。

「起動、《圧縮携帯倉庫インベントリ》」

 ――がきん、がしゃんっ!

 少女がささやいた直後、何もない宙空に光が走り、音を立てて無機質な重量物体が姿を現す。

 酌量、慈悲、いずれも持ち得ぬくろがねの長銃身に、装填用意の済まされた大量弾薬帯――車載クラスの反動、使用制約を持つ連射殺傷銃器、六連装ガトリング砲。

 それが落着とほぼ同時、怖気を震う発射音と共に火線を現出させた。

 秒間百発の勢いで吐き出され続けるライフル弾の連射は、柔肉からなる怪物の肉をまたたく間にえぐり、削り飛ばし、体液と血液を霧霞きりがすみのごとく噴き出させていく。

 苦悶の絶叫を上げ、大芋虫はのたうち後ずさる。高速発射の代償として赤熱する銃身は空想によって状態を巻き戻され、弾帯を支障なく飲み込む機構と連動して絶え間ない攻勢を仕掛け続ける。

 死へと向かって満ち満ちていく、熱を帯びた血煙――だが、やがて形勢に異変が生じた。

《いぃぃあぁぁ――!!》

 低音に編集拡声された赤子のような咆哮が上がると、周囲一面にあふれていた粘膜組織が号令を受けたかのように引き寄せられ、怪物を包みこむ。

 それらは侵蝕していたがれき、鉄骨材をも抱擁の構成材料とし――結果、混合装甲とでも言うべき雑多な鎧が完成。降り注ぐライフル弾の連射を防ぎ、飲み込み吸収し、大芋虫であったものはいびつな肉粘膜の移動要塞と化す。

『なるほど、本質はミノムシというわけか。どういう“願い”の持ち主なのかな』

 男の感心したような声、通信回線越し。

「きょうみない」

 銃砲を放棄し、舞うような跳躍によって上昇、轢死れきしを回避した少女もまた答える。

「ひきこもりがのうなら、それなりのやりかたがある」

 一つ、二つ、三つ、四つ。

 地響きのごとき周辺破砕音をともない追いすがる異形の牙を、明らかに現実離れした壁蹴り上昇の連続で、少女はさばいていく。

 怒りをあらわにし、大きく顎を開き渾身の突撃を繰り出した怪物の口腔に向けて、黒衣の懐から何かが投げ放たれた。

 へし折れた街灯のかすかな光がつかの間浮かび上がらせたのは、あせた黄色、粘土に似た姿形を持つ何がしか。

 がちん!

 少女が身をひるがえし、目と鼻の先を暴走列車のごとく通り過ぎる異形にまなざしをくれる。

 その白い手にいつの間にか握られていたのは遠隔式の点火装置スイッチ

 ――かっ!!

 トリガーが押し込まれると同時、胃の腑の奥で指示を待っていたコンポジションC-4爆薬が盛大に炸裂した。

 鋼鉄の層壁すら破壊する圧倒的な爆圧で腹部を焼かれ、真っ二つに引きちぎられたみのの異形は絶命。制御を失って激突した建造物を巻き込み、体組織の燃える臭いを残すばかりのむくろとなった。

「ほかに反応は?」

 炎が起こした風に黒衣のすそをなびかせながら、少女が尋ねる。

『今のところはなしだ。の件の前哨戦ぜんしょうせんは、恐らくこれで最後だろう』

 男の声がそう答えると、はじめて少女の表情が動いた。

「……がまきこまれることは、やはり避けられないの」

『どのみちね。だからこうして、自分から関わりにいくことを選んだんだろう?』

「……ええ」

 見上げた視線の先では、死骸の火が照らす異空間そのものに変化が生じはじめている。

 風景、臭気、その他あらゆる具現情報の消散。あるじの死により“あるべき形”を定義する空想の供給が途絶え、空間全体が、どこからか湧き上がってきた霧のけぶりに巻かれていく。

『どうせなら前向きに構えるのがいいさ。また会える、そう思っておくといい』

「――うん」

 冷気を含む濃霧に囲まれ、呑まれていきながら、やがて少女は目を細め、独りごちる。

 これまでずっと淡々としていたその声音に、かすかに、あたたかな感情をにじませて。

「また会える。……ゆう

 声が響いた後にはもはや何もない。

 またたく間に分解し無人となった空間には、残響すら残らず――不規則に吹く風が、ただ虚無の渦を織り成すばかりとなっていた。

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