4-2.それは、あるいは

 事態が動いたのはその日の暮れ頃だった。

 俺は腹ぺこ女子どものリクエストで大鍋カレーを煮込んでいる最中。悠乃はクーラーの冷気がいい具合に溜まるソファに陣取ってゲームをやっており、先程帰ってきた由祈はその対面、氷のたっぷり入った麦茶を片手にぐだり姿勢。

 と思ったら後者、おもむろに何かのスイッチを入れ、アンニュイな調子でひとりごとをこぼし始める。

「悲報ー、佑がまたやらかす。こともあろうに悠乃ちゃんにお手製のプレゼントとかあげちゃった模様ー。浮気か?」

「人聞き悪すぎる内容を記録保存すんな」

 肩越しに振り返り視覚であらためて確認すると、由祈の手には録音機ボイスレコーダー、耳にはそこから伸びた有線イヤホンが片方だけさっている。

「ちゃんとお前にだってやったろ」

「二番目じゃん」

 言いつつふくれる由祈の胸元にはオーナメントが揺れている。即装備するくらいには気に入った分、そこのところが不服だったようである。

 いやまあ、わかるといえばわかる。

「あいうぉん」

あおんな一番目。しまいにゃ取り上げるぞ」

 わざわざゲーム画面をストップして顔を上げ、ガッツポーズで勝利宣言をリピートした悠乃に、俺は用意していた警告の言葉を飛ばす。

 由祈のぶーたれには、帰宅直後に堂々と“いちばん”をアピールしていった悠乃のドヤ顔ムーブも大きく関係している。メンタル小学生×二への配慮を欠いた俺も悪いが、火に要らん油をぶち込んだという点ではこのちびっこエリートが戦犯である。

 取り上げ勧告イエローカードが効いたか、もそもそとゲームに戻っていく悠乃に溜息をつきつつ、再び由祈の方を見やる。未だご機嫌ななめの風情を残しているものの、注意は取り出した端末と、再生モードに切り替わったレコーダーからの音声に移行したようだ。

 その様子を見て、飽きっぽい由祈にしては長く続いてるな、とふと思った。日記代わりといってレコーダーに声を吹き込むようになったのは、夏休みに入ってからすぐのことだったと記憶している。当時は新品だったはずだが、今ではところどころに傷やこすれのあとがあるあたり、ちゃんと使っているのだろう。ものの扱いがひたすらに雑、という持ち主の性質を知っていなければ、長年連れそった相棒と勘違いしてもおかしくないくらいだ。

 多忙だと言っていたから、あるいは必要に迫られてのことなのかもしれない。もしそうなら、表面上は平気そうでも、もっと気をつかってやるべきか。

 そんなことを考えていると、由祈がこっちにとがり気味の口先と端末画面を向けてくる。

「ほらー、風原たちも“ずるい”だって。これは穴埋めにおいしいやつ食べさせてもらわないと」

「汗だくで今カレー作ってんだろうが」

 五皿分だぞ五皿分、とつっこむと、それは別腹、と返ってくる。このずうずうしさ、やっぱり気にしなくていいんじゃないか?

 だが、そう呑気に構えていられたのもその瞬間までだった。

「――あれ?」

 端末のメッセージウインドウを見下ろしていた由祈が、不意に怪訝けげんの声を漏らす。

「どうした?」

「いや、なんか……画面が」

 俺も自分の端末を取り出し、風原たちとの会話記録を呼び出す。

 音もなく開いたそれには砂嵐のようなノイズが走り始めている。侵蝕がよぎるたび文面やユーザー名が意味不明の文字列に置き換わり、直前まで目にしていたはずのそれらがを指していたのかわからなくなりはじめる。

 その事実に気付くのと同時、部屋の隅のデスクトップから、警告音、そしてコギトの機械音声が響く。

転移防壁ブロッカーが攻撃されています。監視対象三名の現実における存在確度の低下を確認』

 攻撃をのではなく、

 状況の意味をとっさに掴めずにいる俺を尻目に、悠乃は空間映像ホログラフのモニターパネルを素早く複数展開し、猛然と操作し始める。

「防壁の動作じたいは正常、存在証明の補強回路もシャッフルされ続けている。のに、耐久値減少の勢いがはやすぎる。迎撃クラックにいたってはそれ自体が不発」

『対策されたか。都合よく電脳魔ウィルスの特化型空想でも揃えていたっていうのかい?』

「ありえない。たぶん、キーコードが漏れて解析された。佑」

 モニターを手指のひとぎですべて閉じると、灰晶の瞳が俺を一瞥する。

「出る。ついてきて」

 ポーチから引き出した青い電子鍵がデスクトップに差し込まれると、画面を展開するウインドウが埋め尽くし、未知のプログラム群が起動を始める。

「備えが抜かれたのか」

「そう。まだ保っているけれど、じかんのもんだい」

 脳裏に甦るのは昼の会話。残った不安要素――内通する“狼”の存在。

 俺の考えを肯定するように、悠乃は一つ頷く。

「今から識域に潜る。ちょくせつ敵地にふみこんで、相手のもくろみをくじく」

 そう告げる間にも状況は動いているらしく、コギトからの声が響く。

『転移防壁の耐久値、更に減少』

「よぶんな機能はカット、維持を最優先。あまった空想資源リソースは信号追跡メモリの加速ブースト充当じゅうとう

了解コピー。対象識域の走査、実行中』

「進捗は視覚領域にひょうじ。佑にも共有」

 言い終えた瞬間、俺の視界の端に円形の進捗ゲージが出現。見る間に最大値へと近づいていくゲージを尻目に、灰晶の目が由祈を見る。同時に突き出したのは携帯端末。

「URLの画像コード?」

 事態を察したらしい由祈が緊迫した顔で覗き込み、もの問いたげに顔を上げる。

「よみこんで、だうんろーどしておいて。なかみはテキストファイル。わたしたちが行ったら、みること」

 応じる悠乃は淡々。従った由祈が一連の作業を終える頃、ゲージの値が一〇〇%へと到達する。

走査完了コンプリート。探査公識域“ターミナル”八二六号との同調を開始します。接点座標ハーバー解放オープン

 アナウンスの完了に合わせて悠乃がクローゼットを開くと、あふれた強力な照明光が視界をおおった。

 鞄や衣服が掛けられているはずの、広くとも常識の範疇であるような収納空間はそこにはなかった。真昼の太陽のような街灯が立ち並び照らし出す、濃い霧に満ちた大幅の道路が奥へと口を開けていた。

 クローゼットの扉枠が作る境界線の向こう、数歩先の位置には、巨躯の装甲二輪アーマードバイクがアイドリング状態で待機している。体積、重量、明らかに規格のはるか外――知識のない俺でも容易にそれと確信できる、空想の産物。

「ここからげんばに向かう。佑」

 準備はいいか、と悠乃が目で問うてくる。

「……ああ」

 異質な光景に出くわした衝撃を振り払い、応じる。

「行ってくる」

 悠乃の背中を追って歩き出す前に、由祈の方に向き直り、告げる。

「――うん」

 静かに頷きが返る。

 由祈は守りの固いこの拠点に残る。それが有事には最も有効な対処だと、俺も由祈も聞かされていた。

「カレーの火、とめとくね。帰ってきたら食べよ、一緒に」

「ん」

「風原たちのこと、よろしく」

「おう」

 短いやり取りのあと、口の端を上げ、由祈が笑う。

 それで俺の用意は終わった。境界を越え、悠乃がハンドルを握る二輪の後部に乗り込むと、クローゼットの扉がひとりでに閉じる。

 背中に感じていた視線が完全に遮られ、代わりに怪物的な排気音が全身を叩く。

「ふりおとされないようにちゅうい。もしおっこちたら、そのまま置いていく」

「わかってる。めいっぱい飛ばしてくれ」

「れっつ、ろっく」

 言うが早いか、地を噛んだ両輪の回転が切りつけるような勢いで車体を発進させた。冷たい空想の濃霧を風壁ごと裂いていく加速の中、俺は全身の感覚が、引き絞られた弓のように張り詰めていくのを感じていた。

 “できることをやる”

 胸の内で一度、繰り返す。

 次に見る由祈あいつの笑顔が心からのものになるように、俺は俺にできる最善を尽くす。そうしたい。

 それはあるいは、“願い”と呼ぶに値する感情なのかもしれなかった。

 臨戦の気配に冷える体の内側で、けれど変わらず熱を放つその実感に、俺は少し勇気づけられすらしていた。

 結果はわからなくても、真っ当な人間らしく、自分の意思で道を選び動くことだけは叶うかもしれないと。己の選択にだけは悔いを残さず、最後まで戦うことができるかもしれないと。

 そう思っていた。

 その時は、まだ。

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