1-3(-2).EXIT

 まず感覚で、次に目で探すが、見当たらない。

 仕方なく端末を手に取り呼び出す。しかし応答なし。

「何処行ったんだ、あいつ……」

 少し待ってみても戻ってくる気配がないので、『外に出てるぞ』と連絡メッセを入れて荷物を担ぐ。

 この時点で胸騒ぎはした。由祈はトラブルメーカーではあるものの、ことわりもなく本気で人を心配させるような行動には出ない。“突然いなくなる”はかなり微妙なラインだ。

 ただ、俺相手ならあり得ないという程じゃない。そう思ってまずは移動を済ませることにしたのだ。

 しかし、出口に辿り着いて五分が経っても反応はなかった。

 再び電話をかけながら辺りを見回す。と、感覚が不意に覚えのある気配を雑踏に拾う。

 目で確かめる。確かに由祈だった。後ろ姿だけれど、散々見慣れた背中だ、間違えようもない。

 声を上げようとして、やめた。この喧噪じゃろくに聞こえないだろう。

 仕方なく熱気に満ちた人混みの中へ出て行く。それを待っていたかのように、由祈の影はふらりと動き、消える。

 すぐそばにあった暗がり――裏路地へ入ったのだと辛うじてわかったのは、感覚のおかげだった。

 追いかけて同じ場所を曲がり、奥へと踏み入った。

 瞬間、空気が冷えるのを感じた。近くの施設から冷気が漏れているのかと思いかけたが、背筋を伝う寒気がそれを否定した。

 理由のわからない危機感。しかし、見下ろした足元には由祈の靴跡がかすかに残されている。積もった埃のようなうす汚れを踏んで、更に奥へと。

 一歩、一歩、辿っていく。いつしか雑踏のざわめきは遠くなり、あれほどいとわしかった太陽さえも居所が不確かになっていく。

 いつのまにか思考までもがぼやけ始めていた。進む目的すら曖昧になった状態で、動き続ける自分の足に運ばれるばかりとなる。

 ――じじっ。

 どのくらい進んだか。入り込んだ虫を焼く通電流のような音を聞き、俺は顔を上げた。

 切れかけた緑と白の光の下に、半開きの錆び付いた金属扉が浮かび上がっていた。

 点滅する照明に刻まれていたのは、駆け出す人の姿をかたどった馴染みあるアイコンと、四文字のアルファベット。

 見た瞬間、言いようのない違和感を覚える。

 原因に思い当たった瞬間、音もなく渦巻いていた嫌な予感が、胸の内で一気に膨れ上がった。

 照明のアルファベットは次のように並んでいた。

 “EXIT”

 出口、を意味する言葉。見慣れた“非常口”のサイン。

 それ自体に変わったところはない。問題は他にある。

 ――どうして、それがにある?

 ここは“外”だ。そして非常口とは、その“外”に出るために、建物の“内側”に設けられるものだ。なのにランプは俺の方を向いている。無機質なその光で、暗がりへと続く赤錆びた扉を照らし出している。

 もっとおかしいのは、その異常さを認識しているはずの俺が、見ている光景をと感じてしまっていることだった。

 ――そうだ。これは示されている通りのもの、“外”へと繋がる扉だ。

 混乱する理性に本能が告げる。

 ――何処からの?

 問う意識に、何処からともなく答えが返って来る。

 ――決まっている。

 ――存在おれたちのことをかえりみない、、出口だ。

 ぞくっ。

 全身が総毛立つのを感じた。

 それは、一度も形にしたことのない感情だった。自分でも、ろくに認識も、理解すらもしていない、空気のように曖昧な思考だった。

 ものは壊れる。生命いのちは息絶える。それは自然なこと。存在ものを一番には重んじない、この世界にとっては当然の摂理せつり。世界は、存在おれたちのためにあるわけじゃない。

 だからしょうがない。とやかく言っても、それが嫌でも、受け入れて生きるしかない。

 でも――。

 “もしその摂理あたりまえを、存在こちらえてしまえるなら?”

 そんなことが出来るなら。従う摂理をすげ替えるなどという選択肢が、人間にもしあるのなら。

 皆は、直衛佑おまえは、それを“欲しい”と思うのではないか?

「…………」

 荷が足元に落ちる。照明の下、扉のすぐそばへと、呼び寄せられるように近づいていた。

 束の間、自分が何のためにここへ来たかも忘れ去っていた。それくらい、胸に湧いた感情、欲望は強烈なものだった。

 口を開けた扉の向こうには、音も熱も手応えも感じない、完全な暗闇が覗いている。

 指先が取っ手へゆっくりと伸びていく。その冷たい表面に今にも触れかかる。

 ――がっ!

 それを他方のてのひらが、すんでのところで掴んで止めた。

 力の加減などしている余裕もない。爪が腕に食い込んで、その痛みがかすみかけた理性の横っ面を辛うじて張り倒す。誰でも知っている、それこそ当たり前の事実を意識に思い出させる。

 。出口なんて。

 世界は、世界だ。そこが人間の居場所の限界だ。“その先”なんてあり得ない。

 扉の向こうに何かがあるとしたら、それは“出口”ではない別のものであるはずだ。

 ある種の人間が切実に欲するものに自身を偽装した、恐らくは危険な。

 だから駄目だ。俺はここに踏み入ってはいけない。

 もう一度前提を疑うべきだと感じた。由祈は本当に一人でこんなところに来たのか? 俺が追ってきたのは本当に由祈だったのか?

 取っ手から指が遠ざかる。引力が弱まったのに勢いを得て、身体が扉から離れようとする。

 けれど遅かった。

 不意に感覚に引っかかるもの。覚えのある輪郭、手のひらの気配。

 方角は――真後ろ。

 どんっ。

 反応しきれず、境界の向こう、金属扉の奥の暗闇へと突き飛ばされた。

 振り向きざまに捉えたのは、由祈――ではなかった。

 姿形、それ自体は由祈そのもので間違いない。でも、違う。

「(内側なかみがない! こいつ、そもそも人間じゃ、ない――!)」

 間近で感覚してわかった。これは偽物つくりものだ。外側だけが精巧に真似られた生命いのちのない人形だ。

 それで疑念が確信に変わった。俺は釣り出されたのだ。

 役目を終えたと思しいそれは目の前でほどけると、光る糸の集まりと化して霧散する。

 扉を越える瞬間、全身を奇妙な無刺激と浮揚感が襲った。永遠に続くかと思われたそれは実際にはわずか寸秒で途絶え、重力が促すまま、俺はぬるりとした水溜まりへ倒れ込んだ。

 ばたんっ!

 扉が音を立てて閉じ、自ずから施錠される。空間が光を失う。

 顔を上げた瞬間、水溜まりに漂う悪臭が鼻を突いた。

 酸化しきった鉄錆――腐敗した血の臭いだとわかるまで数秒。そして同時、暗闇の奥から音が響いたことに気付く。

《し、き》

 それは、望ましいものの訪れを歓迎する子供の笑い声のようでもあり、餌の闖入ちんにゅうを知った肉食虫が鳴らす、無機質な歯ぎしり音のようでもあった。

 感覚を走らせ、音の発生源を探る。背後に見上げるほど大きい“何か”の存在を感知する。

 合わせて感じ取ったのは、鼓動する心臓、放散される体熱に特有の、振動、熱、揺らぐ大気の感触。

 “それ”は生きていた。

 そして正気を疑うことに、見慣れたある複脚生物に酷似した様態かたちをしていた。

 それは蜘蛛だった。人間の骨も肉も噛み砕けそうな大顎おおあごからよだれを垂らした、巨大な蜘蛛の怪物だった。

 戦慄が走る。一秒が数倍尺にまで引き伸ばされ、血の気が瞬く間に引いていく。

 今までの“普通”が崩れ去る感覚。

 俺、直衛佑の忘れがたい夏の日々は、この瞬間、すぐかたわらに迫った死の手触りと共に始まった。

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