2-2.非日常、そのはじまり

「どういうつもりだよ!?」

 約五分後、玄関から出てすぐのマンション共用廊下にて。

 まだ早い時間だ、精一杯自制した控えめ音量で声を上げる。

小粋こいき本気がちじょーく。初見の印象は、とてもだいじ」

 悠乃と名乗ったトンデモ銀髪は、何故か若干のドヤ顔で返答する。好感間違いなし、面白かったでしょう、とでも言いたげだ。

「ああそうだな、確かに大事だよ。誤解解くの大変だぞこれ」

 喧嘩を売りに来たのか? と尋ねると、「?」と心底からの疑問符を浮かべつつ首をお傾げになられる。

「責任をとる気はある。なので良質、はなまるほしまーく。なる? かれし」

「ならん。ボケ倒すのも大概にしてくれ」

「ざんねん」

 表情筋が真顔のまま一切動かないせいで、いっそ本気で言っているようにすら思えてくる。

 仮にそうだったとして良いわけはまったくないけれども。いや普通に恐いだろ、脈絡がわからなすぎて……。

 開口一番放たれた衝撃のネタ発言後、俺は大急ぎで諸事を済ませた。関係性については否定しつつ、弁当の梱包作業を急ピッチで済ませ、戸締まり指示と共に姉さんに押しつけ、ここへと出てきた次第。

 いわく、「用がある」そうなのだ。

 どういう用向きなのかは見当も付かない。まともな内容であって欲しいと願っていたが、この有様ではとても期待はできなさそうである。

「説明すべきことがある」

 本題について尋ねると、しかし一転、真面目な眼差しで、悠乃が答えた。

「あなたも、気になっていること、知りたいこと、あるはず」

「……それは」

 そう言われてはこちらも噛み付くどころではなくなる。確かに聞きたいことは山ほどある。

 乗り込んだエレベーターが開き、エントランスに出た。外にはタクシーが停まっており、俺たちが近づくとドアが開く。

「乗って」

 従い、ドアが閉まった瞬間、違和感を覚えた。

 目や耳、鼻から来る刺激におかしなところはない。それだけに余計に気に障る。

 車内全体の様子に意識を向ける。走り出す頃になって、ようやく原因に行き当たる。ハンドルをる運転手だ。

 懐に。硬質な重量物――恐らく拳銃――をっている。筋肉量も相当で、注意の割き方だって、単に公道を走る以上に張り詰めているように感じる。

 俺の緊張に気付いたか、灰色の瞳がこちらを一瞥する。

 だが、続いて声を発したのは悠乃ではなく、別の存在だった。

『なるほど、聞いていた通りだ。勘というものがあると、話が早くなっていいね』

「!」

 出所――悠乃が持っていた通学鞄の中。

 視線を降ろすと、少し開いた鞄の隙間から胴長の生き物が顔を出すのが目に入った。

 外見はイタチ系。オコジョやフェレットの類に似ている。毛並みは真珠色、瞳はつぶら。首輪を付けていて、そこに小さな水晶玉がぶら下がっている。

『おや、びっくりさせてしまったかな。なあに、突然が聞こえるようになったわけだから、今更動物が喋ったところで気にすることもないだろう? 識域じゃあ、使い魔を通じた会話なんてザラだぜ』

 空想としては序の口レベルさ。

 揺れる水晶玉が陽を浴びて光り、音を発した。柔らかな若い男の声だ。

預言者オラクル

『ああ、わかったわかった。二人きりの会話に水を差して悪かったよ、我が娘』

 そう返して、イタチのような生物は悠乃の肩に登り、リラックスの姿勢を取る。

 思わず運転手の方を振り返った。しかし、動じた様子は全くない。おかしなことは何もない、あるいは、と言わんばかりだ。

「そのひとは、“円卓”――わたしたちの支援組織バックアップと連携している政府筋の人員。識域と現実、両方を行き来できる人材はかぎられているから、現実こちらで動く時は労力は基本、げんちちょうたつ」

 流れる景色を背にして、担いでいるわけではない、と伝えるように、悠乃は俺を見つめる。

 対する俺は、とても信じられないという顔をしていることだろう。

 けれど、感情がそんな風に抵抗する一方で、理性は確かに状況を受け入れ始めていた。

 この狭い車内で俺が感覚している三つの気配は、どれも本物としか思えない代物だったからだ。捉えた感触を信頼するなら、取るべき態度は一つしかない。

「……わかった、聞くよ」

 溜息を吐く。何とかそれだけ言うと、悠乃は頷いた。

「いい判断、まる。事態は急をようするから」

「?」

「これからおしえる」

 車載のモニターに細い指先が触れた瞬間、流れていたコマーシャルが消え失せ、幾つものウインドウが重なり合って姿を現した。

 先頭に映し出されているのは、霧の中に浮かび上がる、とても現実とは思えない景色の画像。

「まずは基本的な事項から。あなたが誘い込まれたあの空間は、名を識域しきいきという。現実の影、正史にならなかった全ての異説イフが眠る保管所。現実が辿り得たあらゆる可能性の集積場」

 ポップアップした映像が示すのは、広大なネットワークを思わせる大きな構造図。

「一言でいえば、ありとあらゆる並行世界の情報が圧縮保存されているおーぷんわーるど。おとずれた知性体の観測アクセスを引き金として、物理法則を含む無数のデータのひとまとまりがロードされ、実体化する。他の識域と繋がったオープンな空間が読み出されることもあれば、昨日のような独立閉鎖型オフラインのエリアが生じることも多くある。わたしたちは、その内の大きな生存圏から来た狩人」

「狩人?」

「そう」

 新たなウインドウが最前列化し、様々な形を持った怪物の立体モデルが立ち上がる。その中には昨日俺が出くわした大蜘蛛の姿もある。

逸路いつろ。識域から望む“可能性”を掘り出し、その力でもって現実に干渉しようとする禁忌きんき存在。これらの処分を専門とする狩人のことを、識域では覚徒と呼ぶ。わたしたち覚徒の仕事は、過ぎた干渉を防ぎ、現実の自然な運行を守ること」

 網の目に似た識域の図と、街並みによって表された現実とおぼしい図が並び、その狭間に、点線軌道を刻んで境界をまたごうとする光点が一つ点滅する。悠乃とおぼしいドット描画のキャラクターが銃で光点を撃ち、爆発させた。

「“味方”って言うのはそういうことか」

 獲物の獲物は救助対象、ようやく腑に落ちる。対処が間に合ったのも、あらかじめ事件を警戒していたせいだと考えれば納得が行く。

 だが、悠乃は無表情のまま静かに首を振った。

「半分は正解、半分はまちがい。それが今回、あなたを呼び出した理由」

 最後のウインドウが開かれ、これ以上ないほど見覚えのある少女の写真が映し出された。

がわたしたちの手元にある理由がわかる?」

 付記されているのは二つの文字列。一つは姓名の印字、もう一つは朱のインクによる押印スタンプ

 “AOGI Yuki”/“EXECUTIVE”

 ――仰木由祈、重要警護対象エグゼクティブ

「!」

 意味を理解した瞬間、殴り倒されるような動揺を味わった。内心を悟られまいと気を張っていたけれど、これは隠しきれない。

 顔を上げた俺に、悠乃が小さく頷く。車が折しも速度を落とし、停車する。

 降ろされたのは中心市街に近い住宅区、建設されたばかりの高層マンションの敷地内。

「逸路は現実に住む人間を狙う。餌として、あるいは便利な道具として。多くの“願い”にまつわる存在であるほど、対象は価値を持つ」

 俺が知るどの入り口よりも広く清潔なエントランスを、連れ立って進む。

 セキュリティと共用部を抜け、白い指先がエレベーターを呼び出す。

「貴方の幼馴染みは、極めて希少で高価値な個体として狙われている。だからわたしたちはあなたを含む全ての周辺人物に監視を付け、動向を探っていた。“願い”を集める存在を現実から引きはがすには、関係を持つ精神的紐帯ちゅうたい……命綱の除去がある程度必要になるから」

 音もなく昇降する景色に合わせ、光が揺れる。やがてランプが最上階を指し示し、開いた扉の向こうには、懐に拳銃を吊った男女の姿がある。

 彼らも運転手のように何も言わず、ただ退き、守っていた部屋のドアを開けてくれた。

 中は相当な広さで、使用感のない調度と電子機器だけが置かれている。生活感は皆無。

「おおまかな説明はこれで終わり。そのうえで、わたしからあなたに尋ねることはふたつある」

 白く照明が照らす室内の中央で、銀の髪が振り返り言った。

「ひとつ。彼女を助けたいか。ふたつ。そのために協力する気はあるか」

 わずかな沈黙が降りた。判断の迷いからではなく、想起の苦痛から生じた沈黙が。

「……そんなの、決まってるだろ」

 あの暗闇で嗅いだ、腐った血の臭いを思い出していた。

 なぶられ、頭蓋を剥がれ、内臓を漁られた死骸の惨状が、脳裏で幾つと閃く。

「由祈がなるのを見過ごすなんて、俺はごめんだ」

 あいつは、あんな形で終わっていいようなやつじゃない。

「わかった」

 灰色の目が俺を見上げ、一つ頷く。

『まとまったようだね』

 肩に乗っていた小動物が身を起こし、首をもたげる。

『では、僕は代理で上の連中に報告をしておこう。これから忙しくなるからね』

 テーブルに飛び降り、ひょいひょいと駆けて移動すると、クローゼットの影に感触ごと消えた。どんな手段を使ったのか、どうやら文字通りこの場から“いなくなった”らしい。

 その非現実的な動きが麻痺していた常識にことさら引っかかって、ふと疑問が浮かぶ。

「協力、とは言ったけど、具体的にはどうすればいいんだ? それと、由祈は今どうしてる?」

 ただの一般人である俺がどのくらい知っていいことか、わからないながら尋ねる。

 ことの次第を聞いた以上、特に由祈の安全はどうしても確かめておきたい。あの場でいなくなったのは間違いなく事件絡みだろう。たとえ襲われていなくても、昨日から拘束されているとしたら、きっとストレスは計り知れない。

「計画はたててある」

 悠乃がこっくりと頷き、口を開いた。

「あなたの承諾が得られたから、すぐにでも動き出す。そして――」

 がちゃり。

 唐突にドアの一つが音を立てて開き、見知った姿が現れた。

 無防備すぎる――というか世間的に非常に問題のある――気の抜けた格好で。

「悠乃ちゃん、お待たせー。準備出来たよ。……お?」

「……は?」

 咄嗟に間抜けな声しか出せなかった俺を責めないで欲しい。

 状況が状況だった。昨日から振り返って一番虚を突かれていた。

 ドアの向こうから溢れてきた温度ある湿気――値の張りそうなボディソープの香りを引っさげた、もうもうたる湯気が肌表面を撫でる。バスルームに典型的な暖色照明の光を背に、日々実戦的な動きで鍛え絞っているのだろう身体の輪郭がくっきりと浮き上がる。

 話題のVIP、仰木由祈本人がそこにいた。豪快にもパンツ一丁、濡れた髪もろくに拭かず、肩掛けタオルで辛うじて胸を隠しただけの立ち姿で。

「おー。おっす、佑」

 風呂上がりのおっさんそのもののような仕草で、ほぼ全裸のトップアイドルが手を上げた。

 脇に立つ悠乃も事態のまずさが一切わかっていないのか、親指を立てて淡々と付け足した。

「ご覧の通り、無事元気。すーぱーはなまる、ほしまーく」

「いえーい」

「タオルが危ない服を着ろ!!」

 おもむろなピースで応じようとする問題児に、幼馴染みとしての良心を総動員してつっこんだ。

 疲労が心にどっと押し寄せて来ると共に、ある種の非常な危機を感覚した。

 目の前の女を相手に年来ねんらい磨かれてきた厄介事への直感が、激しく警鐘を鳴らし始めたのだ。

 しかし時既に遅し――退路は今や彼方の向こう。

 時刻は未だ八時前。昨日とは別の意味で過酷な一日が、俺の肩をがっしりと捕らえた状態で始まりを告げようとしていた。

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