1-5(-1).鉄錆と踊れ
がぁんっ!
暗闇の中、身体のそば数センチの位置を空振った複節の前脚が、背筋の寒くなるような音を立てて足元を
跳ねた腐血が、ほんの一瞬前に身を
状況認識はすべて後付けのもの――身体の反応のおまけで付いてきたものだ。感覚経由で反射が働いていなければやられていた。
わずかに遅れ、各部から全身を駆け上がってきた戦慄が合流。感覚が捉えた各種の観測情報を意識へと叩き付ける。
材質:ざらざら、硬い、
重量:法外、重機なみ?
内部構造:心臓がある、血が通ってる――嘘だろ!?
未知の技術で作られた
けれど直感がそれを否定する。
《きぃ?》
大蜘蛛が――もし感情があるならばの話だけれど――口元から怪訝の音を漏らし、
実際、反応できた俺は幸運だったと言える。視覚は今も暗さに慣れきっていない。目での状況把握を早々にあきらめて感覚に頼っていなければ、今頃は地面に
だが、問題なのはここからだ。
血の気が引きすぎてかえって冷めた頭で、湧き上がってきた疑問を手当たり次第にさばいていく。
“どうして”のたぐいは全廃棄。“何がどうなってるか”も考えない。
俺が追ってきた由祈はどうやら偽物だった。俺はこいつに釣られた。それをまず“過ぎたこと”として受け止める。
気にするべきは次だ――“なら、本物の由祈は何処にいるか?”
偽物があいつそのものの姿をしていたことが気になる。同じようにここに釣り出されていたとしたら?
嫌な想像が脳裏で膨らみかけたが、そこで思考を打ち切った。無駄な憶測は何の役にも立たない。
本能の切り捨てに従って、不安を気力に置き換え心臓へと叩き込む。
「(知りたいなら動け、走れ! こんなところでぼうっとしてる暇なんて、ない!)」
覚悟を決め、蜘蛛の一撃が起こした震動の反響を肌身で
錆びた金属棚の間をすり抜け、積まれた荷の山を飛び越え、着地と同時に身を低く沈める。
ばしゃっ!!
隠れた瞬間、何かが音を立てて荷にぶつかった。風切り音に次ぐまとわりつくような衝突の気配、吐きつけられた糸のたぐいと当たりを付ける。
障害物を背、空間把握と大蜘蛛の位置探査を進めながら再加速。改めて距離を稼ぎ始める。
「(高い天井、広い空間! 転がるガラクタに、ところどころに据えられてる金属の複雑構造物――稼働してない工場か何かか!)」
付近に出口は見当たらないが、上階はやや明るい。向けた注意の先、四角く抜かれた空白を感触する。――恐らくは通風と明かり取りを兼ねた窓、そのどれかが開いている。
脱出を図るならそこだ。
そびえる金属コンテナを蹴り、
ばしゅっ! ばしゅうっ!
大型機械の上へと
跳躍、前方回転、スライディング。飛来のタイミングに合わせ手を選びながら、大窓が居並ぶ二階部分へ到着。鉄柵に足を掛け、外――波打つスレート材で作られた屋根へと飛び出す。
びたっ! びたっ! びたっ!
足下で糸の
崩落に追われながら扉があった方角、元来た裏路地に続くはずの端へと向かう。
だが、感覚、追って両目が捉えるのは、市街から辿ってきた一本
分厚く黒い雲の下に居並んだ、見渡す限りの
絶句――息を呑む。
コピーアンドペーストを乱雑に繰り返したかのような画一的な光景に、悪夢に似た非現実感を覚えた。退路が消えたという事実以上に、その景色は俺の正気を強烈に揺さぶってくる。
ばぎゃああっ!!
それでも、驚く暇も絶望している余裕もない。
屋根を砕いて姿を現した大蜘蛛から逃げるべく、俺は死に物狂いで疾走を再開する。
目指すのは屋根の先端部、その向こう。限界まで身体に推力を
――ばしゃっ!
跳躍から一秒。周囲に正銘何もない、という未知の状況の意味を解した感覚が、本能をぶっ叩き全身を総毛立たせた。
地面からの距離はおよそ十メートル超。映画でもそうは見ない、相当な
感覚を総動員し、着地からの
慣性を殺さず手、肩と接地、前転を経て再び立ち、最短で速度を取り戻す。
自己採点では満点以上、ぶっつけ本番であることを考えずとも最上の出来だ。
それでも身体が
「もう二度とやりたくないぞ、こんなの!」
思わず悪態を吐いたが、現実は非情だ。
屋根を砕きながら、遠く背後で大蜘蛛が飛翔した。
質量物が風を裂く嫌な音と共に、
あれだけ重くては踏み切りも着地もまともに出来るはずがないのに、足場は辛うじてながら持ちこたえ、怪物の無茶な移動に手を貸した。たちの悪すぎる冗談だ。緊張と戦慄で口元がひきつっていなければ、いっそ笑ってやりたい。
状況は詰み切る一歩手前。体力、運、脳内麻薬、綱渡りを支える要素が一つでも欠けたら終わりだ。そのうえ、そもそもどこへ逃げれば助かるかすらわかっていないときた。
「(八方塞がりにも程があるだろ! どうすればいい……!?)」
余裕のない頭でそれでも手札を探ろうとした、その時。
ぶーん。ぶーん。
ぶーん。ぶーん。
ポケットの内側で、訴えるように震える端末の感触。
「着信……!?」
こんなおかしな場所にまともな電波が通じているとは思えない。
取り出し、発信者の名前を確認――表示されていたのは文字化けと欠損だらけの異様な番号。
寸秒、
覚悟してスピードを落とし、端末液晶を
「取り込み中なんだけど、何処の誰だ!?」
『あなたのみかた。今、そちらに急行中』
返ってきたのは抑揚の薄い、鈴を転がすような澄んだ声。
同年代と思しいかすかに幼さの残る声調に驚いていると、意識を引っ掻き回すような奇妙な感触の
「っ!?」
反射的に耳から離そうとしたが、端末を握った手は張り付いたように動かない。
仕方なく耐えていると、数秒でそれは途絶え、代わりに機械的な人工音声が後を継いだ。
『
次の瞬間――感覚と視界に違和感。
景色、捉えている世界に、何かが染みてくる。
色濃い
『
「何だよ、今の!?」
『いきのこるための応急処置。
応答は淡々。
意味を問おうとした時、不意に胸から熱を持った光が飛び出し、矢印を作って視界の端で激しく明滅を始めた。
進行方向を指示しているらしい、と理解するまでに一秒。設定された
……あくまで、行ければ、の話だけれど。
理由は一目瞭然。
「“落ちて死ね”って言われてるか!?」
『そんなわけない。
「そうかよ! そりゃ何よりだけど、それよりどうすればいいかを教えてくれ!」
聞いたことのない単語を使いつつわざわざ否定してくる声に、思わずつっこみが漏れる。
するとあっさり返る答え。
『かんたん。とぶ』
「はあ!?」
『現実ではむりでも、ここでならできる。あらゆる
正気か?
頭に浮かんだ言葉は危機感に飲まれて消えた。
踏み切るべき屋根の端まではもう十メートルを切っている。止まれば死、飛び降りても死、こうなれば一か八か跳んでみるしかない。
「“コギト”。代理干渉、じゅんび」
半ば
「
『
先程聞いた機械音声が応答した直後、感覚に“それ”が来た。
全身が急に軽くなったような、それでいて足先には力がみなぎるような、不思議な感触。
――跳べる。
根拠不明の確信が湧き、俺は突き動かされるように、最後の一歩で思い切り屋根端を踏みつけて離陸した。
ばぎゃっ!
蹴ったスレート屋根が壮絶な音を立てて割れ砕け、同時、身体が宙空へと撃ち出される。
射出、という言葉がまさにふさわしかった。
まるで弾丸のような勢いで前方上空に跳び上がった俺は、たった数秒で建物二階分もの追加高度を獲得。激しく渦巻く風を全身で切り裂き、大距離を高速滑空していた。
「う、お、お、おおおお――!?」
耳元でごうごうとうるさいのは風の音か血流か。
自力での大跳躍など比較にならない、鳥になったような開けに開けまくった世界を、混乱の傍らで妙に冷静に眺めている自分がいる。ほとんど夢を見ている時の感覚そのままだ。
違うのは、そうと思い込むにはあまりに本能が怯えすぎているという点。
起きた頭で夢を見るというのは恐いのだと、一生使い所のなさそうな知識を得る。
「これ、着地どうするんだ!?」
降下、もとい落下が始まる。
視界の先、はるか遠かった目標の工場屋根が見る間に近づき、思わず声を張り上げる。
手に握った端末からの声はかすか。
「
『認識しました。《
だんっ! どっ! がぎゅっ!
着地の瞬間、俺の両脚を中心に半径三メートルほどの広面積が平たく沈み込んだのを感覚が察知。
反射的に回転接地、落下の勢いを殺す動きを取ったが、必要ないほどに衝撃は軽微。
無論、身体への負荷もほとんどない。慣性が促すまま、すぐに疾走を再開する。
背後から大蜘蛛も跳んで来るが、今度は俺も覚悟が済んでいる。
着地地点そば、進行方向には、二つ並んだ大煙突。
『
『まる。これですこしは時間がかせげる』
『
『略式でいい。三秒にちぢめて』
『
ショックと運動負荷で心臓が大変なことになっている俺をよそに、端末からは交互に声が響き、勝手な会話が繰り広げられる。
少しの時間を急ぐあたり、こっちのきつい状況を反映してくれているのだろうが、詳細は勿論わからない。
『……
『音声入力モードで待機。佑』
機械の長口上の後、声は促すように俺を呼ぶと、それきり沈黙した。
「どうして俺の名前――じゃなくて! 俺に言えってことか!?」
『そう』
うなずかれても困る。大体何だ、その何とか的“願い”って。
『あなたが本心から抱いている、己の在り方に通じるたいせつな願望のこと』
「“助かりたい”じゃ駄目なのかよ!?」
「それは生物一般としてのあなたが抱く受け身の“願い”。それでは“
また知らない言葉だ。
この状況を何とかするためのものなら、言うまでもなく欲しい。欲しいけれど、
「いきなりそう言われたって思いつくわけないだ、ろっ!」
再び屋根の端を蹴り、大跳躍。一階分の高低差を落下しつつ、かろうじて向こう岸に着地、制動、再加速。
背後からは速度を取り戻した大蜘蛛の追走の気配。
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