第46話 アリスとダニエル-2
『十八番目の駅でアリスはお母さんと再会できました。アリスはわんわん泣きながらお母さんに抱きついているのを見届けて、ダニエルはまた地下鉄に乗ります。
アリスは聞きました、「どこに行くの」と。
ダニエルは言います。「ぼくはぼくの仕事を全うするんだ」と。そして地下鉄のドアはしまり、アリスはお母さんと一緒に懐かしい家に帰りました――』
迷子のアリスと地下鉄ウサギのダニエルの、ぼくの知るハッピーエンドの後。
その声はぼくの知らない節を、ぼくに教えてくれなかった本当の『最後の話』を語りだす。
『「ぼくはぼくの仕事を全うする」ダニエルは走る地下鉄の中で、卵の体を嫌味なスーツで包んだ、ニヤニヤ笑顔のハンプティ・ダンプティと向き合います。
さんざんアリスを惑わして、ダニエルからすべてをうばって、不幸にし続けたハンプティ・ダンプティ。ダニエルはクロケーのマレットをかまえて言いました。
「アリスをうばわせてたまるか。お前に言われるがまま何もかも自分から捨てたぼくに、最後までよりそってくれた女の子を、お前なんかにうばわせてたまるか」と』
そこまで優しく物語を語っていた声は、激情の色に染まった傍白に変わる。
『……俺の娘を、俺の最後の読者を、俺の幽霊(ハンプティ・ダンプティ)の戯言なんかで奪わせてたまるか』
ぼくが剣に心の向きを、叩きつけたい思いを込める度に、本物の父さんの声がする。
きっとそれは乗降場の扉の向こうにぼくを送り出した後の、父さんの最後の記憶。
ごくり、と喉を鳴らす音の後、絞り出すように父さんは言う。
『バブルと九〇年代引きずったプロデューサーの言いなりになって、芸人さんに恥かかせて、ディレクターに無理させて、AD虐めて。そんなクソみたいなホンを書き続けるのも、そんなホンが電波乗った向こうでウケて、チヤホヤされるのも全てが嫌だった。
なのに俺は……周りの人でなしどもに合わせて、自分のホンは大勢の人間を動かせるなんて言って……そうしてたらノートを開いても、パソコンに向かっても何の物語も書けなくなった』
叩きつけるように刃を残った腕に、腹に打ち込む。
あいつの張り付いた厭な笑顔が、その度に苦悶に歪む。
『焦って、先輩の言葉に誘われて流されて。なりたかった物でもなんでもない、物語で誰かを楽しませるどころか誰かを嘲笑って傷つけることしかできない三流テレビマンに――ハンプティ・ダンプティを演じるしか無くなった俺にだ。話をせがんで、無理やり考えたパクリの継ぎ接ぎみたいな失敗作を本気で面白いって喜んで、感情移入までしてくれた最後の読者なんだ』
再びごくり、と何かを飲み込む音。そして父さんはまたゆっくりと、言い聞かせるように『アリスとダニエル』の最後の物語を語り出す。
『――ダニエルはマレットを振り回します。ハンプティ・ダンプティは汗を浮かべながら「やめろ、俺様の中にはおまえの魂が入っている。俺様を殺せばおまえが死ぬんだぞ」とダニエルをおどすのです。
ダニエルは最高にうれしそうな、だけどさびしそうな顔で、大声で言い返します。
「そうだ。だからぼくはおまえを殺すんだ。おまえがいなくなって、アリスが幸せに生きてくれるなら、ぼくは命なんていらない。ぼくの命でおまえが消えて無くなるなら。アリスがおまえもぼくも全部忘れて幸せに生きてくれるなら、それがぼくの最高の幸せだ……」――だから、もう終わりにしようぜ。
ごくり、と、もう一度喉を鳴らして、暫くの後に自動車のエンジンのかかる音が大げさに響き渡る。父さんはシーシーと荒い息を歯の間から漏らしながら、独り言つ。
『典子ちゃんにあの時のこと謝れなかったのが心残りだけどさ。あの、シャフレーンって名乗った女の子の言うことが本当なら……俺がお前に乗っ取られる前に俺自身の意志で死ねば、お前は俺のニセモノのままで、アリスを道連れにだって出来ない。死ぬのは
「違う!」
熱い液体が頬を伝うのを感じながら、ぼくは父さんの最期の言葉を否定する。
「あのドアの前でくれた『アリスとダニエル』のノートを、ぼくは捨てられなかった」
ぼくは千里大輔と自分を恨んだ。だけど『アリスとダニエル』は最後まで恨めなかった。
地下鉄ウサギのダニエルは、皮肉屋で、でもアリスを優しく導いてくれた。
「父さんにとっては『アリスとダニエル』は継ぎ接ぎだらけの失敗作かもしれない。捨てて、忘れて欲しかったのかもしれない。だけど、ぼくは父さんの物語を捨てない――ちっちゃなアリスだってダニエルのことだって絶対忘れてない!」
それでも無情に、父さんは終わりへ向かう一節をまた語ってしまう
『思い切りたたきつけられたダニエルのマレットは、ハンプティ・ダンプティの卵のからをやぶります。どろりとくさった黄身と白身、それにダニエルの魂が電車の中を飛んでいき、やがて消えていきました』
「アリス、見捨てないでくれよぉ、アリス……俺はアリスに見捨てられたら、どうすればいいんだ……」
結晶の胴体をくねらせ、芋虫のように蠢いて、悲痛な命乞いをするハンプティ・ダンプティ。
そこにはぼくが怖れ続け、恨み続け、立ち向かい続けた、凶悪な市獣の姿は無い。
そしてぼくのために死に臨もうとした、本物の父さんの優しい声とはかけ離れていた。
「ああ、見捨てないよ……二度と蘇らないように殺してやる」
ぼくは吐き捨てるように呟くと、その頭と胴を繋ぐ部分に刃を当てる。
そしてぼくは自分の魔法の名前と共に、自分の想いと、父さんの傍白を刃に込めた。
「
切っ先は簡単に、奴の首の結晶を叩き折った。
途端、張り詰めた糸が切れて、足の力が抜けていく。それと共にぼくの魔法の中からもう一つの『心』が、最後の一節と共に失われていく。
ぼくは溢れる涙を止められないまま、床の上に崩れ落ちた。
『「さよなら、アリス。いっぱい幸せになるんだ」。地下鉄ウサギはそう言うと、マレットを置いて、電車の椅子に腰掛けて、二度と動かなくなってしまいました……ああ、もうちょっと考える時間があったらなあ』
*
リングバーンの中央駅の構内いっぱいに、その尖兵たる
ぱきぱきぱきぱき。破砕音が連続し、男の体を構成する結晶に次々ひびが入り、ぼろぼろと崩れてゆく。
「……これで、終わった」
アリスはゆっくりと首を
崩壊した結晶から暗い色の炎が上がり、ハンプティ・ダンプティと火焔放射器の成れの果ては消滅してゆく。
「『アリスとダニエル』の、本当の最期のお話を聞いた」
アリスは剣の切っ先をだらんと垂らしながら、口にする。
「剣を通して。ダニエルは――父さんはぼくを助けたくて、それに色んな物にずっと踊らされた自分を許せなくって、色んなハンプティ・ダンプティと戦って、死んだんだ」
わたしは「うん」と答える。
「最期のお話、こんな場所でも動けるウロになるくらい、強かったんだよ。ずっとアリスについていてくれたんだよ」
「父さんも納得いかなかったビターエンドだったけどね」
アリスはおどけるような口調だ。
だけど、その目からは壊れた蛇口から水が漏れるみたいに涙がぽろぽろ溢れて、頬を伝って、止まらなくなっている。
「もう帰ろう。姉さんも、灯里のお母さんも、心配してる」
わたしは気丈に振る舞おうとするアリスの傍へ歩み寄って、彼女の両手をぎゅっと掴む。
「どうしたの、灯理」
「こうしてあげたいから、こうしてるの」
「そう」
ぽつん、とわたしの手の甲にも温かい雫が落ちる。
「ありがとう、灯理」
わたしは、駅舎の明かり取り窓から差すリングバーンの狂ったような黄昏に、少しだけむかついた。
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