第37話 表と裏の環状線
ハンプティ・ダンプティになってしまったアリスのお父さん――千里大輔の話をお母さんが聞かせてくれたのは、日曜日の夜、夜の早いお父さんが寝て暫くしてからだった。
わたしも詳しい話を聞きたかったけど、お母さんも彼のことをわたしに話したかったようで、どちらとなく会話が始まった。
千里大輔は大学時代のお父さんやお母さんの同級生で、線の細い小説家志望の文学青年だったという。
初期ゼミで一緒だったお父さんやお母さんとはすぐに仲良くなって一緒に何度も遊んだり、出かける仲だったらしい。
夏休みにお父さんが木更津のお祖父ちゃんの古い車を引っ張り出して、千葉の海に二泊三日行って、帰り道で車のエンジンが駄目になって、お父さんと彼がああでもない、こうでもないと慌てている時の話をしているお母さんは実際、とても楽しそうだった。
ちょっと強引で無神経なお父さんと、引っ込み思案なお母さんと千里さんの関係が、わたしと香織とアリスの関係に似ているような気もして「やっぱりわたしはお母さん似なのかな」と言うと、お母さんは柔らかく「そうかも」と答えてくれた。
だけど、途中からお母さんの表情は曇り、そして口調も重くなる。
「千里くんがおかしくなったのは三年に入ってから。千里くんがラジオドラマの脚本の新人賞で賞を取った後に、芸能界に顔が利くってサークル主催の先輩が千里くんに近づいてきて、千里くんはその人にべったりになってったの」
わたしは、その先輩という人物があの映像のニセ紳士男だとすぐにわかった。
普段は絶対に浮かべないようなお母さんの強張った、憎々しい表情のせいだ。
「芸能界に行きたかったの? 千里さんは」
わたしは疑問をぶつける。
お母さんの話を聞いていた限り、アリスのお母さんが特別芸能界に憧れていたとか、そんな感じは全然無かった。
そこに急に出てきた芸能界と言う単語は違和感しかなかった。
わたしの疑問にお母さんは首を振る。
「その先輩が顔を利かせて、放送作家にしてやるとかなんとか言ったんだって――今じゃもうわからないけど、千里くんはそれから本当に変わった。その先輩の主催する怪しいサークルにも出入りしたりして、良くないコンパに女の子を誘ったりしてた」
そこまで話して、お母さんの口が一旦止まり、少し間を置いて再び語り始めた。
「……それでお母さんがああなって、お父さんがお母さんのことに腹立てて、千里くんとはそれが原因で――お父さんがその先輩本人を殴ったから、お互いに完全に仲違いしたの」
「……なんでそんなになっちゃったの。そんなにその先輩って凄い人だったの?」
話を聞いていくと、彼がおかしくなったのも、お母さんのトラウマや仲違いも、全部そそいつのせいだ。
大きな灰銀色の拳銃を持った女の子の姿の市獣なんかより、ただ一人の人間のはずの『先輩』の方がずっと人を不幸にしている。
だけどお母さんはううん、と静かに首を横に振る。
「その先輩は口は上手かったけど全然凄くない。凄かったのは先輩の後ろにあった……テレビとか雑誌とかの『業界』とかってものの方。その人たちが言ったことが『正しい』ってみんな信じてたし、その人達も多分そう思ってた」
灯里が生まれるずーっと昔の話よ。と力なく苦笑しながらお母さんは返す。
「仲違いする前から千里くんは完全にその『正しさ』に取り憑かれてた。小説の新人賞に行き詰まって荒れてて、そこを先輩とか周りの人に付け込まれたんだと思う。千里くんはどんどんその人たちの言う『正しいこと』の受け売りを平気で話すようになった」
どんなことなの、と訊くと、お母さんは「言いたくない」と、また首を横に振る。
だけどわたしには、ハンプティ・ダンプティの話しぶりからなんとなく想像がつく。
「お母さんもそんな話やめてほしいっていつも思ってたし、お父さんは千里くんがそういう話を始めると本気で怒ってた。お父さんと千里くんも最後はずっと喧嘩してた」
お母さんの横顔には、お母さんがたまにしか見せない怒りの表情が混じっている。
「それで、アリスのお父さんはどうなったの?」
「その先輩のコネでテレビの構成作家になったの。それから何年かして同窓会で会った時には、本当にはしゃいでた。すごい景気のいい話してたのを覚えてる」
お母さんの声は嫌悪感で満ちていた。
わたしの思い浮かべた彼の風貌も、困った顔の線の細い文学青年ではなく、あの高級スーツに身を包み、火焔放射器を背負うハンプティ・ダンプティの姿に変わっていた。
お母さんはそこで大きな溜め息をつき、テーブル上の紅茶に視線を下ろす。
「お茶、飲んでいいかしら?」
「うん」
わたしの了承を得たお母さんはお茶に口を付けると、ふう、と息を吐き出す。
吐き出され息は、そのままリビングの中を重く漂っているようになった。
そしてお母さんはまた話を始めた。さっきよりももっと重苦しい口調で。
「最後に千里くんの顔を見たのは……それから何年かして、千里くんのお葬式で」
その単語がいざ出てくると、わたしの胸もずしりと重くなる。
「千里くんが首都高で事故を起こして死んだって聞いて、お母さん達は灯里と拓を町田のおばさんに預けて、お葬式に行った。喪服を着た奥さんと、小学生ぐらいの娘さんもいた」
舞さんだ。とわたしは思った。
「会場の中には『業界』っぽい人とか、テレビでよく見る芸能人とかもいっぱいいた。番組で大失敗してヤケになって自分から事故を起こしたとか、若い女と隠し子作ってたとか。もう才能枯れてたとか、千里くんは最初から無能だったとか。関わったら負けてたとか、関わらなくて良かったとか――ロビーでその人達が滅茶苦茶言ってたのが嫌でも聞こえて、お父さんが拳骨握ってその人達を睨んでたのも今でも思い出せる」
「…………悔しかったんだ」
お父さんと、今のわたし自身の率直な思いを口にする。
文学青年がすり寄ってきた『正しさ』を装ったものに取り憑かれて、自分自身もそれの一部に変質したまま死んでしまった。
しかも彼を変え、死に追い込んだ『正しさ』は何一つ責めを負うどころか彼を平気で貶し、死んだ後も邪悪な都市の化け物に食われ、獣と同化して実の娘と戦わせ続けている。
千里大輔という一人の人を、色んな悪意がオモチャみたいに扱って、彼だけじゃなく舞さんやアリスまで不幸にしてる。
『リングバーンに魅入られてしまうということはその方の自己責任でもあります。あの街の半分は、もう誰の手でも救えない者です』
茉莉伽さんの突き放すような言葉が頭の中でリフレインする。
千里大輔がリングバーンに魅入られ、市獣を生み出してしまったのは、確かに茉莉伽さんの言う通り、自己責任なんだろう。
表のこの街の『正しさ』を装う無邪気で無責任なモノは、たとえ自分から人を取り込んで、狂わせて壊しても、責任なんか全然感じないし、負わせることもできないんだ。
だから自己責任。
でも、せめて。
「八重洲口で、止めてあげられなかったの?」
わたしはお母さんにぶつけるようにその疑問を口にする。
「……逢えてないの」
お母さんは幾度目かに、静かに首を横に振った。
「事故の日の朝、千里くんが突然電話してきてね。八重洲地下街に来て、娘さんを新幹線で静岡の奥さんの実家に届けて欲しい。頼れそうな人はお父さんか私しかいない。頼むって……最後に『俺が本物のハンプティ・ダンプティになる前に、娘を助けてくれ』って。
……正直千里くんのことは関わりたくなかった。もうあの一件以来、どんどん『正しいもの』に取り込まれていった千里くんが怖かったから。でも、あの時聞いた千里くんの声は、電話越しでも泣きそうで余裕なんて全然無いのがわかった。お父さんとも相談して、拓と灯里をお父さんに預けて、千里くんに『行く』って伝えたの。
……ただ、お母さんが八重洲の地下街に来た時にはね、リュックを背負って両手でノートを抱えた小さな女の子が、首都高速の乗降場のドアのとこにいただけ。千里くんがよく小説の原案を書いて、何度もお母さん達に見せてくれたのと同じ、万年筆向けのちょっとだけ高級な灰色のノート。それですぐにその子が千里くんの娘さんだってわかったわ」
わたしの頭の中に、小さなアリスが思い浮かぶ。幼くて、灰色のノートをぎゅっと抱きしめたまま、ドアの前の雑踏で佇むアリス。
「それで娘さん――アリスちゃんに千里くんがどこにいるか聞いたらね、『アリスとバイバイしたあと、ドアをしめちゃった』って」
微かな溜め息が、リビングに響き渡る。
「東京駅の首都高速の乗降場の扉ってね、絶対に東京駅側から開けられないの」
お母さんの視線が天を仰いだ。声の響きは哀しくて、虚しい。
「千里くんはアリスちゃんを守るのに、絶対引き返せない方法で送り出したんだと思う」
お母さんの言葉の後の沈黙を、廊下から拓の「ねーちゃん、風呂」の声が壊す。
わたしは、お母さんに「話してくれてありがとう」と言うと、お風呂場に行く。
湯船の中でわたしはお母さんの話を繰り返し続けた。
千里大輔は自分が死ぬことと引き換えにアリスを助けてほしかったはずなのに、その願いすら叶えてもらえなかった。
『表』も『裏』もなく
わたしは生まれて初めて、自分の育ったこの街が憎いと言う感情を抱いた。
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