第四章 輝ける昇格(ザ・シャイニング・プロポーション)
第36話 知ってしまった日の風景―千里アリス
わたしの周りに何が起こったとしても、変わらずに月曜日はやってきて、週は巡る。
お昼時、わたしは香織に断りを入れるとお弁当を持って、屋上に続く狭い階段へ向かう。
「アリス、やっぱりここにいた」
わたしの思った通り、アリスは彼女の定位置である踊り場の壁に松葉杖と身を預けていた。手首には購買の白いビニール袋が通され、その袋の中身であろうサンドイッチを食している最中だった。
「こんな埃っぽいとこじゃなくて、もうちょっと良いところで食べようよ」
「まともな場所は人がいるから。苦手なんだ」
わたしはそうやって淡泊に嘯くアリスの側にフェイスタオルを敷いてから座って、巾着袋を解き、蓋を開ける。
今日はたまには和モノにしたかったので、自作の筋子と梅干しのおにぎりとおかずのセットだ。
「お母さんは大丈夫だった?」
「うん。普通に元気」
お母さんとわたしはあの後「お母さんが疲れて倒れてしまって、一緒にいたわたしとちょっとだけ横になって休んでから帰ってきた」という下手くそな作り話を押し通した。
お父さんも拓もわたし達の作り話を信じ、お母さんは一晩ぐっすりと眠って、日曜日のお昼過ぎにとても気持ちよさそうに目を覚ました。
もっとも、予定していた眼鏡の新調とカラオケは結局お流れ。
日曜日の午後にはリングバーンの存在と「輪上の乙女」について、黙って危ないことをしていたのをお母さんに本気で絞られ、茉莉伽さんによる電話説明の後に「絶対にその街に行って一人きりで無茶と危険なことはしないように」と入念に釘を刺された。
例の『正しさ』の怯えは消えていたが、その分真剣に身の安全の保証を求められ、わたしは以前とは別な疲れ方をしていた
わたしがおにぎり一つとお弁当箱の中身を半分ほど、アリスがサンドイッチを食べ終えると、アリスは踊り場の壁に片足で寄りかかったまま、無言でわたしを
彼女の視線には、少し敵意が混じっているようにも見えた。
理由は多分、お母さんの発言だろう。
「この前のこと、やっぱり気にしてる?」
「気にしてない、って言ったら嘘になる」
あの日以来アリスは、わたしに敵意の籠もった視線を向けることが多くなった。
「まさかあいつと君のお母さんが知り合いだったとは思ってなかった」
アリスは怒気を込めて、吐き捨てるようにそう口にする。
その様子だけで、アリスにとってハンプティ・ダンプティ――彼女の父親たる男がどんな存在なのか、手に取るようにわかってしまう。
「……ぼくがリングバーンと戦っているのも、あいつを今度こそ殺すためだ。リングバーンに食われて手先となったあいつを殺すのが、ぼくの役目なんだ」
アリスはわたしと自分自身に言い聞かせるようにそう呟く。
「じゃあ、せめてわたしにも協力させて」
わたしの提案に、アリスは首を横に振る。
「君は関係ない。これはぼくの問題だ」
「関係なくない。アリスには何度も助けてもらったし、友達が困ってたら助けるのが当然だし……それに一人より二人のほうが戦いやすいはずだから」
「ぼくの問題だって言ってるだろ!」
絶叫と共にアリスの拳がだん! と強くペンキ塗りの壁を叩いた。
手を伸ばしたおかげで、袖からは血の滲んだ包帯が覗く。
切り傷を刺激したらしく、痛みに一瞬顔をしかめたアリスは、そのおかげかすぐに落ち着きを取り戻して「ごめん」と漏らす。
そして松葉杖を握って、そそくさと階段を下りていってしまう。
ただ一人取り残されたわたしはアリスの去った方を眺める。
昨日聞いたお母さんの話で、さっきのアリスの激高も、アリスがあそこまで市獣と化した父親に固執する理由も、わたし自身もなんとなく察せられた。
「それでもアリスの傷だらけになるのは見たくない」
一人で戦えばアリスはそれだけ傷だらけになる。身体だけじゃなく、心まで。
そしてアリスはそれをなんてことはないと嘯いて戦い続ける。
拓がわたしが目を押さえて溜め息をつく姿を見たくない、と言った気持ちを、わたしはこの瞬間になってやっと理解できた気がした。
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