第35話 小さな勇気と大きな邪悪
スマートフォンを覗くと、茉莉伽さんからの連絡が入っていた。
『灯里ちゃんの乗った電車の位置がわかりました。線路が中枢に分岐する駅でアリスちゃんを待たせます、その駅で列車を停めて下さい』
はい、とわたしは短く返信する。
「誰とラインしてるの?」
「東京最古の魔女さん」
もう迷い込んでしまったら、この邪悪な街の存在や魔法のことを隠す必要は無い。わたしは全部をぶちまけるつもりでいた。
ちろん、とスマートフォンが音を立てる。
『その次の駅です。停め方はわかりますか?』
『赤い紐を引っ張るとブレーキがかかるんですよね』
『その通りです。ちなみに車掌弁と言います』
気難しいラーメン屋の店主みたいに腕を組んだ熊のスタンプを添えた説明口調の返事が、緊急時でもペースを崩さない茉莉伽さんらしいと言えばらしい。
電車の最後部ではさっきの激戦を知らずに制帽をかぶった車掌ウロが例の如くぷきゅぷきゅ言いながら椅子の上で上機嫌に遠ざかる線路を眺めていた。
わたしはお母さんにそれに触れないように言及すると、いつかアリスがやったように車掌弁をの取っ手を握る。
線路の先に複数に枝分かれした線路と何本ものホームを持つ駅が近づいてくる。
電車がスピードを落とさずホームを通り過ぎてしまおうとする前に、わたしは紐を思いっきり引く。
耳障りな音を残して電車の後端がホームぎりぎりの場所に停車すると、わたし達は乗務員用のドアを開けて、そのホームに降り立った。
レモンのむっとする香りがするプラットホームではじめて、わたしとお母さんは今まで自分達乗っていた電車が、オレンジ色に塗られていることに気づく。
「……昔の中央線の電車ね。お母さんが大学生ぐらいの頃の」
お母さんがぽつりと呟く。そこに複雑な感情が交じっているのを感じ取れた。
きっとお母さんにとっては中央線もあんまり触れたくないものだったんだ。
「ねえお母さん」
わたしは訊く。
「……あの時さ、お父さんがあの男の人をぶん殴っちゃったんだよね。お母さんのこと、酷く言われて、怒って」
お母さんは少し「そう」と答える。
「お父さん、鈍いけど強いし優しいから……あの夜も何度も携帯に電話して、ちょうどこの電車に飛び込もうとした時に電話くれて。それでお母さん、ホームで膝突いて泣いちゃった」
「お父さん、そういうとこあるよね。鈍いのに、お母さんのピンチだけは助けちゃう」
「今回のピンチは灯里に助けてもらったわ」
くすんだ夕陽の中で、お母さんはゆっくりと呟いた。
わたしは手元の白銀色をした自分の魔法を撫でる。
表面に書かれたアルファベットに似た文字を指でなぞると、『
この小さな白銀色の拳銃は、改めてわたしの性格の象徴なんだと実感できた。
こつん、こつん、とコンクリート造りの駅の階段を、硬質な何かが叩く音がする。音が近づいてくると、お母さんは少し身構えたが、わたしは「大丈夫」と返す。
「大丈夫? 百瀬さん。茉莉伽さんが非常事態って言ってたから……」
階段の下から現れたのは、例の赤いマントを翻し、松葉杖を突くアリスの姿だった。
隣に立つお母さんは若干驚いた表情をしている。
突然出来た娘の友達が娘同様魔法少女だったのだから、驚いて当然かもしれないけど。
「途中あんまり大丈夫じゃなかったけど、今は大丈夫」
「うん……見ればわかる。頑張って、お母さんを助けたんだね」
なんとかね。とわたし。
「お母さんも大丈夫ですか?」
「……ええ」
遠慮がちなお母さんの言葉を聞いてアリスはふう、と息をつく。
「じゃあ帰りましょう。あまり長居していると別の市獣が来ま――」
まさにその瞬間、狙ったようにかつん、こつんと別の固い足音が混じって、わたし達の立つホームの端にぼうっと炎の揺らめきと、陽炎に揺れる人影が立ち上る。
「やあぁ、会いたかったよアリス!」
耳障りな、高らかな男の声が響く。
「……ッ! こんな時に!」
アリスが一瞬で踵を返す。ホームの向こうに泛かぶ影の正体はわかっているようだ。
わたしも、それが誰なのかわかってしまった。
「お嬢さんもこんにちわ。ああ、典ちゃんは久しぶりかな? あの新参の獣は君たちを仕留め損なったみたいだね。全く、俺が助言したのに。若手は根性がないからいけないよ」
耳障りな声と、足音と共にゆらりとその影が近づいてくる。
両手に火焔放射器を構えた、スーツ姿の伊達男。
アリスの宿敵、にやにや笑いのハンプティ・ダンプティ。
あの子を侮辱するような言葉を面白半分に吐き捨てたハンプティ・ダンプティに、わたしは怒りのままに銃口を向ける。
「灯里、そんな奴はほっといて帰らなきゃ」
その言葉を聞いて、わたしは悔しさ交じりにこくんと頷いた。
「お母さん、これを握って下さい」
わたしが逃げようと言うまでもなく、アリスはポケットから切符を取り出して、お母さんと、わたしの手に渡す。
「おっと、逃げるなんて連れないなぁ! 典ちゃんとは同窓会以来なのにさぁ! もっと俺と話す時間を作ってくれないかな!」
ハンプティ・ダンプティの挑発するような声が響く中、アリスの手に握られた切符鋏によってぱち、ぱち、ぱちと短い間隔で三つの切符が切られた。
周囲の風景が割れ、体全体を揺さぶる音がして、次の瞬間にはわたしの目の前に広がる世界は、『東京』という駅名板の踊る、山手線のホームだった。
わたしは胸をなでおろすように、あの子を嘲笑ったハンプティ・ダンプティへの怒りを静めるように息を吐く。
アリスも不完全燃焼なのが目に見えるくらいに、顔をしかめてホームの先端――さっきまで、あいつがいただろう場所を睨めつけていた。
「ねえ、アリスちゃん」
わたしの後ろでお母さんが、アリスに問いかける。
アリスは渋い顔のまま「なんですか」とぶっきらぼうに返す。
「さっきの男の人は一体何なの?」
「ぼくの敵で、市獣と呼ばれる存在です。ぼくはハンプティ・ダンプティと呼んでます」
「……千里、アリスちゃん」
教えていないはずのアリスのフルネームを呼ぶお母さんの声は何故か低く震えていた。
『正しさ』を押し付ける時と違う、剣幕と言い表した方が良いくらいの真剣で、険しい表情のまま、お母さんはアリスに向かって語り始める。
「……あのね、私は一度あなたに会ってるの。あなたがとても小さい頃、ここの、東京駅の
お母さんの震える声は止まらない。
アリスはより一層、顔をしかめる。
「あの人は
「……はい」
アリスは唇の端を歪めながら、口にした。
「邪悪な街に取り込まれ、尖兵となった、その成れの果てです」
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