第34話 変わったわたし、変われないわたし
ちっ、と、大きな舌打ちが、電車の走行音の中でさえわたしの耳元に聞こえるくらい鮮明に鳴り響く。
声の方向にはボロボロの市獣がブレザーを着た百瀬灯理の姿で、幽鬼のような様相のままこっちを睨んでいた。
右腕がぷらぷら揺れて、左腕もぎこちない動きで胸を掴み、ブレザーとブラウスを真っ黒く汚れている。髪の毛もぐしゃぐしゃで足もふらふら。
だけど肩で息をしながらわたしを睨み付ける瞳は、濁った色ではなく、怒りで染まっていた。
「なんなんだよ……なんなんだよお前」
灯里ゾンビが足を引きずりながら、感情の籠もった声で言う。
「わたしは、わたしだよ」
コッキングピースを引いて弾丸を装填する。
金の弾丸ではない、赤銅の弾丸が薬室へ送られる。
そして、自分そっくりの少女に向けて銃口を定める。
「なんでなんだよ……なんで灯里は――お前はそんなに強いんだよ! 変われるんだよ!」
服がどす黒い液体に染められ、顔も髪も埃だらけの彼女は両手をべたりと床に着け、スカートごと尻を上げる。
クラウチングスタートをもっと野蛮にしたような、高架駅で見せた市獣の、獣の体勢。
けど、あの時や、さっきまでのような威圧感や怖さは感じない。
「後押しされて、やっと、自分を信じられるようになったからだよ」
わたしの言葉に市獣の顔が歪む。
けど、それは醜い獣の顔なんかじゃなかった。もっと別の顔だった。
「あああああああああああああっっ!!」
がん、とビニールの床を蹴って市獣は跳ぶ。
絶叫を伴ってがん、がん、がんと電車の天井、壁、床を蹴り、市獣はわたしに近づいてくる。
わたしは拳銃を突き出したまま、市獣を見据える。
「落ち着け、わたし」
あの練習の時とおんなじだ。ミニバスとおんなじだ。相手の出方を見て、そこを狙えばいい。
引き金に乗せた指と、眼鏡越しの双眸に、わたしは神経を集中させるように念じる。
「とぉぉぉもぉぉぉりいいいいいっっ!!」
電車のガラス窓を蹴り飛ばし、ガラスの割れる音と同時に、斜めの方向から市獣が眼前に迫ってくる。
偶然だが、練習の時の市獣と同じ位置から。
身体がぶれないように足に体重をかける。
千里さんから褒められた体幹は、今は電車の振動にびくともせず、近づいてくる市獣を照星の先に捉えていた。
「っ!」
そして、人差し指に力を込める。
ぱあんっっ!
橙色の閃光と煙が銃口から吹き出し、刹那、ボトルチョコレートを思わせる形の真鍮の薬莢が銃から吐き出される。
銃口を飛び出した赤銅の弾は窓外のくすんだ夕陽に煌めきながら、お母さんの時と違って真っ直ぐに突き進み、市獣の胸に吸い込まれてゆく。
市獣の胸に穴が開き、黒いものを噴出しながら市獣がどさりとその場に墜落した。
手元に目を落とすと、白銀色のスライドは銃弾を発射して引かれた状態のままで、薬室にも弾倉にももう一発も弾が残ってないようだ。
わたしは、ゆっくりと歩を進める。
その度にくすんだ青緑色をしたビニールの床が、こつ、こつ、とブーツの固い靴底に叩かれて、音を立てる。
「なんで……なんでなんだよ……なんで……とも、りぃぃぃ」
灯里ゾンビは顔を歪めながら、なおもわたしの名前を呼び、ブレザー越しに左の手を伸ばそうとする。
銀灰色の拳銃を出すでもなく、わたしの顔に向けて手のひらを開いて。
「……最初にあの駅であなたが言ったよね。あなたは『正しく』生きたわたしだって」
「そう、だよ……なのになんで……なんで……」
泣きそうに歪んだ、自分そっくりの顔をした獣は、「なんで」と疑問を投げかける。
悔しさの雫が目元に浮かんだぐしゃぐしゃの顔を見ているうちに、わたしもいつの間にか目尻が濡れていた。
「あなたは最後まで自分を信じられなかったんだよ。あなたが『正しい』って言い張る色んな物に縛られちゃって、それに反発できずに一人で全部を抱えて、自分を否定して受け入れちゃった女の子の鏡写しだったから……あの大きな銃がすっごい『正しさ』だって信じて、自分を否定することでわたしとお母さんを傷つけるしかなかったから」
銃把の下の弾倉を引き抜いて、コートのポケットに入れる。弾倉がポケットの底に落ちた瞬間、その重みがすっと消える。
暫くして反対のポケットに重みを覚えて、わたしは弾丸の入った弾倉を取り出した。
「わたしはたまたまわたしを信じる人がいっぱいいたから、わたしを信じてあげて、あなたに勝てるくらいに強くなれた。お母さんだって、きっとお父さんが信じてくれたから、時計は止まったままだったけど生きてこられた」
弾倉を銃把にはめ込んで、コッキングピースをもう一度強く引く。
薬室に赤銅色の銃弾の込められた薬莢が、ちゃきん、と音を立てて装填される。
「リングバーンがあなたを作ったとしても、あなたに『正しさ』の苦しさを全部押し付けて、あなたがあなたのこと信じられなくして、わたしだけ変わっちゃって。ごめんね」
「あ、やまる……な、よぉ……ちく、しょ」
しゃくり上げる獣の声は、もう唸るような電車の走行音とレールを踏む音に、かき消されそうになっている。
「……あなたのことは大っ嫌いだけど、辛いこと引き受けさせて、ごめんね」
ぱああぁん。
引き金に指を添えるより前に、わたしの『心』の揺らぎを受け取ってしまった白銀色の銃は、余韻を残したまま赤銅色の弾丸を暴発させる。
わたしの顔をした女の子は最後まで悔しそうに泣きながら、ローファーと、伸ばした指の先からついた黒い炎に一瞬で包まれた後、何もなかったかのように消えてしまった。
残ったのは電車のあちこちにこびりついた、どす黒い染みの名残だけ。
「……灯里」
生きた色を帯びた声がわたしを呼ぶ。
「お母さん」
お母さんはいつの間にか席から立ち上がって、わたしの方をじっと見つめていた。
無事だったんだ。よかった。そんな言葉を口にする前に、お母さんが口を開く。
「頑張ったね、灯里。全部伝わったし、見てたわ」
「うん、頑張った」
わたしは誇らしげに首肯する。
「……ずっと迷惑かけてごめんなさいね」
「ううん」
わたしは首を横に振る。
「お母さんの苦しいのは話せることじゃなかったし、わたしもあんなの絶対許せないから、ちょっとだけ、お母さんの気持ちもわかった」
わたしはそこで一呼吸置いて、その先の言葉を継いだ。
「けど、わたしはわたしを信じていきたいんだ。お母さん」
その言葉は自分でも信じられないくらい、力強い語調だった。
わたしは『変身』したままお母さんの手を取って、言う。
「早く帰ろう。夕ご飯冷めちゃう」
わたしはお母さんを伴って電車の最後部に向かって歩き出す。
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