第33話 金色の雫
「お母さん!」
わたしは電車の床をばたばたと蹴立てて、わたしはお母さんのもとを目指す。
眼鏡越しに、さっきまでは電線にしか見えなかったお母さんの『心』を覆う物が、はっきりとその本当の姿で見える。
お母さんの記憶の中で、黒く
あいつが立ち上がる前に、それを見なければ、理解しなければならない。
わたしはお母さんの前で拳銃に両手をかけて、下げる。
眼鏡と照門、その先の照星に全ての意識を集中させて、コッキングピースを引く。
金の弾丸が装填された銃口をお母さんの胸に合わせた。
「教えて、お母さん。お母さんは何を怖がっているの?」
わたしは銃口に意識を向けながら、お母さんに訊く。
眼鏡のレンズが黒い記憶の凝りに、像を映しだす。耳にかかったフレームから声も聞こえてきはじめた。
最初に見えるのは市獣と同じ姿のお母さんが、同年代の男の子や女の子に囲まれて声をかけられている映像。その中にはまだ若い頃のお父さんもいる。
像の中のお母さんは、周りの子達と比べても地味で垢抜けない風貌だった。
(「典子も彼氏作らなきゃ! 彼氏いないまま卒業するなんて勿体ないよ!」)
(「そうだよ! それに
(「ええ、でも……」)
(「行かなきゃソンだよ! もしかしたら芸能界とか入れるかもじゃん!」)
お母さんにその友達と思しき女の子が声をかける。口々に勿体ない、勿体ないと上がる声の攻勢にお母さんは曖昧な返事だ。
お父さんは少し複雑な表情で、黙ってお母さんと、お父さんの友達らしい線の細い青年に目を配らせていた。
そこでまた像が切り替わる。
夜なのに眩しいくらいに電気が点っているどこかの繁華街を、お母さんは夢心地なようにふらふら、ゆらゆら、おぼつかない足取りで男の人に手を引かれるがまま歩いていた。
お母さんの顔は真っ赤で、整った容貌と小洒落たスーツをラフに着こなした、お母さんより一回り年上に見える男の人。
柔らかな笑みを浮かべながら紳士的にお母さんの手を引こうとする。
だけど、この男の人は紳士なんかじゃない。わたしは男の人が公園の暗がりにお母さんを投げ捨てるみたいに放ったのを見て、そう確信した。
こいつだ。こいつがお母さんの恐怖の源だ。
紳士の仮面を速攻で投げ捨てた男。夢見心地のお母さんは抵抗できないまま。
だんだん像が真っ黒に塗りつぶされて、お母さんの心の叫びだけがわたしの耳に、心に響いてくる。
(なんでこんなことになったの!)
お母さんの心の絶叫は止まらない。
(お酒をいっぱい飲まされて、男の人に連れて行かれて……! みんなおかしいよ! わたしは無理ですって何度も言ったのに! なんでみんなわたしの言うこと無視するの! なんでみんなあんなに嬉しそうなの!? わたしがこんな目に遭ってるのに……もう嫌! みんな、みんな全部信じられない!)
お母さんの『心』は掠れた声で悲痛に絶叫しながら、真っ黒な大きい何かを無理矢理振り払おうともがこうとしていた。けど、そいつはお母さんを捉えて放さない。
しばらくの後、もう一回像が切り替わる。
どこかの建物の廊下。そこに若いお父さんとお母さん、そしてあのニセ紳士男と、その間に挟まれるように友達らしい青年が居心地の悪そうな様子で立っている。
お母さんはお母さんとわからないほどにジャギジャギザクザクの無残な髪になっていて、眼鏡もかけていない。
きっと怒りのままに自分で髪に鋏を入れて、滅茶苦茶に切ったに違いない。
お父さんは今にでもニセ紳士男に噛みつかんばかりの剣幕で睨めつける。
(「酒を無理に飲ませて、嫌って言ってるのに無理に連れてったって、どういうことですか! 大輔にはただの合コンって言っていたでしょう!」)
(「無理にって……周囲の合意はあったわけだしさ。それにホラ、嫌よ嫌よも好きのうちって言葉あるじゃん」)
ニセ紳士男はお父さんの問いかけに、へらへらと笑いながらそう嘯いてみせる。
(「大体さ、君はこの子のなんなの? お友達? 俺は恋人を欲しがって合コンに来たこの子の彼氏になってあげようとした訳で、周りにも祝福されてた訳。君にキレられる覚えなんかない訳よ。わかる?」)
何も言い返さないお父さん。
言い返したくても、返す言葉の全てがこいつの詭弁の材料になってしまうのを知って、何も口にできないといった様子で男を睨んでいる。
線の細い青年は息を荒くしてお母さんの方を申し訳なさそうに視線を配る。
お母さんは涙を浮かべながら、そんな彼を一生懸命睨み付けていた。
ニセ紳士男は怒りに震えるお父さんの側に寄ると、ぼそりと、だけどそばにいるお母さんにも聞こえるほどの声でお父さんに耳打ちする。
(「それにこんな地味眼鏡ちゃん、ヤれないと商品価値なんか無いじゃん」)
そして世界が暗くなり、最後に鈍い音。
そこで像は突然に途切れて、わたしの目にはうなだれるお母さんが再び映る。
「最悪だ」
わたしはお母さんの黒い凝りの正体に、そう吐き捨てる。
こんな記憶が何かの度に蘇るなんて、耐えられなかっただろう。怖いし、むかつくし、その上誰にも話したくない、最悪の記憶だ。
時代が違う、ってお父さんは言ってた。
こんなことが許される時代なんてどんな時代だったんだ。
あのお洒落気取りのニセ紳士男の行為が『正しかった』なんて、お母さんに向かって『商品価値』とへらへら笑って平気で言い出すのが許されるなんて。
しかも周りもお母さんを無邪気に追い詰めてて――こんなのが許された時代なんて、最悪って言葉しか浮かばない。
「お母さん」
眼鏡越しに眇めた照門の先には、さっきまで見えなかった、黒い電線の隙間が徐々に見え始める。
「この記憶を思い出したくないのはすっごく伝わる。時間を止めちゃいたいって、『心』を殺したいって思うのもわかる」
複雑な絡まりの隙間に見える、灰色に染まった『心』。
それは香織のと違って結晶のようなものがくっついていて、お母さんが止めてしまい、縛り付けていた時間の長さを物語っている。
「でも、その気持ちに自分の心を委ねちゃダメ。『心』を委ねちゃったら、あの最悪男よりもっと最悪な奴、悪意の塊みたいな街がお母さんを食べにくる。そしたらお母さんはお母さんじゃなくなっちゃう」
照星は、灰色の結晶の一番こびりついた場所に合わさった。
「だから、痛くても、辛くても。わたしと一緒に時計を進めよ……帰ったらきっと、夕ご飯はお母さんの好きな大葉のジェノベーゼだよ」
わたしはそこでやっと知ることが出来た自分の魔法の名前と共に、引き金を引いた。
「『
ぱあぁん! と軽い発砲音。
発射された弾丸を模った魔法の雫は、今度はお母さんの『心』を守る黒い電線の隙間と薄い部分を、複雑な軌道と角度でくぐって、抉って、お母さんの『心』の一番奥を目指す。
そして、
――ぱきん。
音を立てて、金の弾丸はお母さんの灰色のこびりついた結晶に大きな穴を開けた。
そこから『心』の凝りの石は放射状にひび割れ、ぱきぱき音を立てて細かな砂粒のようになって砕けてゆく。
それと共にお母さんの頬の赤みと、『心』の色が取り戻される。
お母さんによく似合う、優しくて控えめなライトブラウンに。
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