第32話 眼鏡と拳銃
「……どうすればいいの」
「どうもしなくていいの」
そいつは静かに返す。
「なんなら貴女も典子を救えなかったコトを後悔しながら乗り続ければいい」
市獣が沈んだ声で出した提案は、絶対に受け入れちゃいけない。受け入れれば市獣の思うつぼだ。
香織の時はすぐにそう理解して銀の拳銃で立ち向かえたはずなのに、今は同じ提案を受け入れてしまいたい欲求が確かに芽生えている。
諦めたくない、と。そんなこと絶対にしたくない。と叫びたいはずなのに、一方で何も出来なくてお母さんを救えず、目の前で環状線や市獣に『心』を殺されるのを見ながら、自分だけ助かるのが嫌で、自分もいなくなってしまいたい。と思ってしまっている。
「ああ」
わたしは転がりながら力なく声を上げる。
「茉莉伽さんの言ったのはこういうことだったんだ」
今更ながらに理解できた。この環状線では誰かを救えないと罪悪感を抱いたら、その時『心』は折れきって、死を受け入れてしまうんだ。
「……だから誰かを救えないことを悔やんじゃダメなんだ」
そうすれば、自分を責めてしまうから。
自分自身が『心』をこの街に食べられることを選んでしまうから。
「……ようやく自分の限界が理解できたのね。灯里」
銀灰色の大きな拳銃の筒先をお母さんの額に突きつけて、お母さんの過去を模した獣は口元を吊り上げて嗤うのだった。
けど。
わたしは痛みを押し殺して息をいっぱいに吸うと、乗客のお姉さんの脚を左の手で掴み、銃を持った右手と両肘をビニールの床に着かせ、力を込めて無理やり立ち上がる。
「……まだ、わたしは……受け入れたくない、折れたくない」
両足を開いて悪あがきのように白銀の銃を構える。
車輪がレールの継ぎ目を叩く度に突き上げる振動と、喉とお腹の痛みで照星も照門もぶれにぶれて、とても弾丸は市獣に届きそうもない。
そんなわたしを市獣は一瞥して、左手の拳銃の筒先を大儀そうにわたしの方に向ける。
やっぱり利き手以外じゃ巨大な拳銃は安定しないのか、電車の振動に合わせてゆらゆら揺れてる。
けれど、それでも棒立ちになってるわたしの『心』を砕いて殺すには十分だ。
「いい加減諦めなよ、魔法も未熟な灯里には誰も救えない。香織が助けられたのは香織が特別強かったからで、本当は灯里の魔法に誰かを救える力なんて無いんだから」
市獣が冷酷に事実を突きつける。
けど、わたしはそんなの受け入れたくない。
「未熟なのも、力も及ばないのも、わたしだってわかってる。けど」
死んだ表情をした女の提案を受け入れたいと願っている自分は、確かにいる。
それでもそんな結末を完全に受け入れられる程、まだわたしの『心』は折れてはいない。
「けど、絶対に救ってみせる」
「どうやって?」
「そんなの知らない! けど!」
「けど。それで? 灯里はもうちょっと頭良いかなと思ったのにな……やっぱこうするしか無いのかな」
どばああぁん! と灰銀色の筒先が轟音を上げて火を噴く。弾丸がわたしの右耳元をかすめて、甲高い破裂音と共に電車の壁に大きな穴を開けた。
右耳が痛いくらいじんじんする。
かすった空気だけでこれだ。
当たればきっとわたしの頭にでっかい彼岸花が咲いて、口から上が全部無くなってしまうに違いない。
「諦めようよ。その魔法を解いて、席に座って。そうすれば痛みもないまま楽になるから。そうやって刃向かったって結局何も変わらないし、痛くて損するだけだよ」
市獣は筒先を気持ち右に寄せる。わたしの頭にでっかい彼岸花を咲かせるために。
「解くもんか! わたしは絶対、お母さんの時間を動かすんだ!」
わたしは両手で強く白銀の拳銃を握った。
こいつは倒せなくても、せめてお母さんの心を覆ってるあの黒い電線さえなんとかできれば、そこから時間を動かすことが出来るんだ。
茉莉伽さんの言うようにこの銃がわたしの想像力の生んだ魔法なら、魔法の力がわたしの想像力を反映した物なら――わたしがもっと強く願えば、『心』に絡んだ電線をなんとかする力だって得られるはずだ。
「想像力だ、想像力……」
わたしは呪文のように、単語を唱える。
目を細めて歯を食いしばり、窓外から差し込む光と影を背負うお母さんと、過去のお母さんを模した市獣を見る。
目に入るのは銀灰色の拳銃の照門を眼鏡越しに覗き込む市獣と、お母さんの彫像じみた無表情。
「……眼鏡」
なんで気がつかなかったんだ、とばかりに、脱力した声でわたしはそう呟く。
わたしが求め、お母さんが怖がって、今市獣が着けている、眼鏡。
心を覆う物の正体を見て、その隙間を見つけて、時間を再び進める魔法を撃ち込む。そんな眼鏡があればお母さんの止まった『心』を動かせる。
それができる?
市獣に言われるまでもなく、臆病なわたしがわたし自身に問う。
「大丈夫だ、灯理。わたしを信じろ!」
わたしは自分に檄を飛ばす。今まで他人に何度と無く言われたフレーズを口にする。
もうそろそろ、わたしはわたしを過信しても良いはずだ。そう思いながらプラスチックの銃把を、より強く握る。
銃把は既に香織を助けた時と同じくらい、火傷しそうなほど加熱していた。
「わたしのための魔法なら! わたしの想像力に、応えて!」
激高に任せてそう口にした途端、手元の熱は、奔流のように身体全体を覆ってゆく。
さながらアニメの中で魔法の呪文を唱えた女の子のように、熱は生地となり、服となる。
まず現れたのはベージュ色の長いコート。
袖も裾も明らかにわたしにはぶかぶかなコートは完全にその姿を現してから、袖がまくられ、鮮やかな金色のカフスピンで留められる。
コート自体にも同じ金色のボタンが鈴なりに付いて、スニーカーは明るい色の革のブーツに。
首元には真っ赤なリボンが結ばれ、星を象ったちっちゃなブローチがアクセントみたいに付く。
そして目元にも熱の奔流が流れたと思うと、鮮やかな金色で彩られた細いフレームの丸眼鏡が、わたしの目元に顕れる。
熱の奔流が収まった時、身体の痛みも、市獣の発する嫌悪や圧迫も、綺麗に消えていた。
市獣はまた苦々しげに、ちっ、と舌を打つと、灰銀色の引き金を連続で引き絞る。
どばん! どばん! どばん! と筒先がオレンジ色の火を噴いて、弾丸がわたしの方に飛んでくる。
最初の一発が届く前に、ブーツの靴底がビニールの床を蹴るのが早かった。
最初の一発はさっきまでわたしの立っていたところを通り過ぎて、貫通路の窓を割る。
二発目と三発目は狙いが反動に負けて完全に明後日の方向に飛んでいって、一発はクーラーをぶっ壊し、もう一発が帽子にスーツ姿のおじさんの乗客に命中する。
胸に大きな穴の開いた身体で恨みがましく市獣を睨むおじさんに、市獣は余計苛立ったらしく、拳銃をお母さんの額に押し付ける。
「もういい、悠長に環状線に食わせてられるか。じゃあね『地味眼鏡ちゃん』」
「やめろおおぉぉっっ!」
わたしは走りながら引き金を引く。
ぱん、と市獣の持つものよりずっと軽い銃声ともに発射された弾丸は、灰銀色の拳銃に吸い込まれるように命中する。
鈍い金属音を伴って拳銃が市獣の手の中から弾き飛ばされ、宙を舞った彼女の拳銃は電車の隅の方へと追いやられていった。
続けて三発、わたしの放った銃弾は全て市獣に命中する。
三発の弾丸は弾かれることなく別府典子を模った身体にめり込み、白いセーターを真っ黒な粘った液体で汚す。
そいつはそのままバランスを崩し、環状線の形に合わせて右へカーブし始めた電車の慣性に負けて倒れ、床に黒い液体を撒き散らしながら派手に転がっていった。
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