第27話 アリスの姉

「ねえ、あなたが百瀬さん?」


 突然、後ろから知らない声がわたしの名を呼ぶ。


 わたしが恐る恐る振り返ると、ロビーの白色の照明と、ガラスの向こうに透ける不夜城の風景を背負うように、パンツスーツ姿の長身の女性が立っていた。

 綺麗な細身の長身と、そのおかげで嫌味にならない黒いスーツを押し上げる胸の膨らみ。それにシュッとした顔立ちとやや茶色がかった髪色は、さっきまで言葉をかわしていた相手とそっくりで。

 けれど、柔和な顔つきと、肩下まで伸びた髪が彼女と大きく違う。

 わたしが「はい」と答えると、彼女は手を前に出して、頭を下げる。


「ごめんなさいね。うちのバカが迷惑かけたみたいで。よりによってあなたをパシらせる気でいたとか言ってたわけだし」


 千里さんのアルトよりもっとハスキーなその声で、わたしは彼女が電話の向こうで「いい加減にしなさい!」と怒鳴った声の主だと理解した。


「えっと、千里さんのお姉さんですよね」


「そう。千里舞って言うの。よろしくね」


 流石社会人なのか、慣れたような口調で名乗った舞さんは、千里さんの荷物を雑にどかして――切符や車掌鋏の入ったミリタリージャケットだけはわたしが咄嗟に引っ張って自分の膝の上に寄せたが――隣のベンチに座った。


「アリスは?」


「さっき呼ばれて、今検査中です」


「また山手線?」


 舞さんの言葉に、びくん、とわたしの身体が強張る。


「その様子だと図星ってワケだ」


 わたしの隠し事を見抜いた舞さんの口調は、しかし、さあこれから追い詰めてやると言わんばかりのものではなく、むしろ諦めるような寂しげなものだった。


「あいつが山手線で何かあるのはなんとなくわかってるんだ。毎月のようにどっかに傷こさえてさ。山手線のホームで大怪我してるってJRから電話貰ったのも今回で六回目だし」


「あの……」


 わたしは舞さんにリングバーンの話をぼかしてでもしようか、と考え始める。

 でもそうすると、舞さんに縁が生まれるかもしれないし、何より千里さんを裏切ってしまいそうで、怖かった。


「いいよ、何にも話さなくても」


 そんなわたしを先回りするみたいに、舞さんが優しく、でも寂しげに返す。


「その様子だと無理して話したら面倒な話なんだろうし……それにあいつ、どんなに重いモノも絶対虚勢張って抱え込むし、うち色々家族関係面倒でさ。わたしは怖くてあいつのことフォローしたくても出来ないんだ」


 他人事のように苦笑しながら舞さんは語る。

 でも決して薄情なんじゃなく、本当は心配でたまらないけど、自分には千里さんに触れられないと諦めている。わたしには舞さんがそう見えた。


「そういうとこだけはオヤジそっくりなんだよね、あいつ」


「……千里さんのお父さん、ですか?」


 そういえば、千里さんの両親の話は聞いたことが無かった。


「そ。子供心に凄い嫌なオヤジだと思ってたけど……ホントは家族にも周りにも何にも言わないで一人で虚勢張り続けて、本当は色々抱え込んで張り詰めちゃったらしくてさ……酒飲んだまま首都高で車すっ飛ばして、壁に自分から突っ込んで死んじゃったんだ」


 だからさ、と舞さんは自分の指を絡めながら、続けた。


「実の妹相手にそんなこと思ってるのが嫌だし、怖いけど――私は、アリスもオヤジみたいに突然死んでも全然おかしくないなって思えてきちゃってる」


 舞さんの溜め息混じりの告白に、わたしはやっと千里さんに感じていた危うさの理由が何なのか、なんで舞さんじゃなくわたしに電話してきたのか、わかったような気がした。

 千里さんの抱えている物――リングバーン、ハンプティ・ダンプティ、舞さんの言う『面倒くさい事情』――をできるだけ隠さず、何も遠慮しないで話せる相手がわたしなんだ。

 そして千里さんはまだまだ自分の中だけで、色んな物を抱え込んでる。

 そこにはきっとまだわたしは入れないのだろう。


 わたしはふと、舞さんの鞄が目に止まった。鞄の縁の収納スペースに挟まれた、膨れ上がった紙袋には、わたしも知る出版社の名前とロゴが書かれている。


「舞さん、出版社の人なんですね」


「ああ、うん。一応まだ若造だけど編集やってんだ。これは持ち帰り仕事」


 舞さんの声色が明るくなる。

 多分これが普段の舞さんのテンションなんだろう。


「灯里ちゃんは本とか読む方?」


「はい、ちょっとは」

 わたしは首を縦に振る。

「って言っても漫画とか童話の延長みたいなラノベばっかりですけど。あんまり固いのとかバトル物は苦手で」


「なるほどねえ」


 舞さんは何か言いたげに、うんうんと頷く。

 どんな本を担当してる、とか、もしかしたらわたしの好きな本だったらその口から色んなことを語りたいのかもしれない。

 ただ『大人の事情』で語れない。そんなところなのか。


 不夜城新宿は、夜そのものに抗うように電灯とLEDとネオンを点して、ロビーの中からでもわかるくらいに空を明るく染めている。

 舞さんはペールオレンジの皮装丁のシステム手帳を開いて、薄めの唇を尖らせた難しい顔をして、リーフを指でなぞっていた。

 わたしは車掌鋏の入ったポケットを膝の方に寄せる形で千里さんのジャケットを抱く。


「ねえ、灯里ちゃん」

 舞さんがふう、と軽く息を吐いてから口を開く。

「アリスと山手線の件、灯里ちゃんも割とがっつり関わってるんだよね」


 わたしは、舞さんの言葉に押し黙る。

 舞さんはそれを肯定できない肯定だと受け取ってか、言う。


「私も小さい頃結構心霊体験して、今でも幽霊とか信じてる方でさ。アリスと山手線のもそっち関連で、アリスはそれを一人でなんとかしようとしてる感じなんでしょ」


 わたしは再び沈黙で返す。

 きっと舞さんの心霊体験というのもリングバーン絡みで、ひょっとしたら市獣の声なのだろう。だけどそれを舞さんに教えることはできない。

 それを舞さんはやはり肯定と受け取って、話を続けた。


「初めて会う年下の子に言うのも心苦しいんだけどさ……あいつが、アリスが一人で突っ走ろうとしたらフォローしてあげて。あいつに同年代の友達なんているだけ奇跡みたいなもんだからさ」


「あの、実は本当は私と千里さんは友達かどうかまだわからないと言うか……知り合ったのも最近ですし、話すのも最低限ですし」


「アリスの対人能力で普通の子らしい『友達』の定義って当てはめられると思う?」


 舞さんが苦笑する。

 確かに千里さんにはその定義は通用しないだろう。


「私は色々あって避けられてるし、そうじゃなくてもあいつの役には立たないだろうし。あいつがいっつも険しい顔とか思い詰めた顔してるの見てると、いつかどっかで死にそうで怖くて。灯理ちゃんみたいな子に大の大人が頼むのはもちろん間違ってると思うんだけど……お願い。アリスのこと、できる限りで良いから、幽霊から守ってあげて」


 そう言う舞さんの横顔は、とても真剣で。

 わたしは今回ばかりは頷く以外に、できなかった。


「わかりました。わたしができる範囲で、やってみます」


 舞さんの顔を見て「わからない、できないかもしれない」なんて、言えるわけが無い。

 茉莉伽さんも結果じゃなく、意志が大事だと言った。わたしはそれを信じることにした。


「そうだ」

 と舞さんがさっきのテンションの声で提案する。

「アリスの検査終わったらさ、灯里ちゃんも家まで送るよ」


「え、いや。そんな――」


 送ってもらうなんて悪いですから。と次の語を次ごうとした瞬間、舞さんは唇にそっと人差し指を置く。


「私がやりたくてやってるから良いの。あのバカ妹がパシらせようとしたお詫び」

 そう言う舞さんは、とても格好良く見えた。


 そして千里さんが戻ってきて、わたしは促されるままに憂鬱そうな千里さんと一緒に舞さんの車(丸ノ内線の電車に似てる真っ赤な丸っこい車で、ミニクーパーと言うらしい)に乗せられたのだった。


 舞さんの車はわたしの家の方角へと走り、十数分ほどして車は中野のマンションの前に停車する。舞さん達はここから初台はつだいの自分のマンションまで車で向かうのだという。


「じゃあね、灯理ちゃん。おやすみ」


 アリスのことよろしく。と口に出さないまま、でも確実にそう言いたげな表情で挨拶すると、舞さんは軽やかに車を発進させて、やがてわたしの視界から消えていく。

 なんだか、色んなことがある日だ。わたしはそう考えながらマンションの中に入った。

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