第26話 アリスとハンプティ・ダンプティ

「千里さん!」


 茜色と言うには赤すぎる、ビルに挟まれた狭い空の下。わたしは千里さんの指定した場所――西新宿の医科大病院のロビーにたどり着く。


「……ありがとう、来てくれて」


 待合の椅子に座った千里さんはそう言ってわたしを迎えた。

 痛々しく、傷ついた姿で。

 ジャギジャギザクザクの髪は今日の昼見た時以上にぐちゃぐちゃで、砂や綿埃もところどころに付いている。汚れたミリタリージャケットはリュックと共に隣の椅子に置かれ、顕わになった制服のブレザーとブラウスは赤い染みが幾つも浮かんでいた。


 それに何より、スリッパを履かされ切り傷だらけの右足は、青紫色の太い内出血の筋が何本も走っていて、くにゃりと変な方向に曲がっていたのだった。


「えっと、妹さんですか」


 千里さんの側の若い男性――服装と胸の名札からして新宿駅のJRの駅員さん――が、わたしに寄ると、そう訊ねる。


「いえ、友達です」


 そうですか……と、駅員さんはわたしをめ回す。

 身内でなく友達と名乗る人間が来たので、千里さんとわたしが悪さをしている子じゃないかと疑っているのだろう。

 秘密が無いと言えば嘘になるが、疑われるのは心外だった。


 駅員さんは結局納得したらしく「あのですね」との前置きの後に、千里さんがこうなってしまったた経緯を説明してくれた。


「彼女、山手線ホームの階段で誰かに突き落とされたらしくて。周りの方がすぐに処置と我々を呼んだので大事にはならなかったのですが……落ちた時に重度の捻挫を起こしていて。ここまでは我々が運んだわけなんですが、ここから先の付き添いに……」


「違う、付き添いじゃない」

 千里さんが慌てて口を挟む。どれかの傷に障ったのか、顔をしかめながら続ける。

「付き添いはいらないから、荷物を家に持って行って欲しい」


「でも、そう言うのって保護者がするんじゃないの? お父さんとか、お母さんとか」


「今ぼくの保護者は忙しいんだ」


 千里さんは渋い顔のまま、否定する。

 だけどわたしも、わかりました、とこんなに傷だらけの千里さんを一人で病院に放置するのは、出来なかった。

 と言うよりも、ここまで傷だらけで構うなと言う方が無理な話だ。


「じゃあ手当が終わるまで一緒にいます。その後荷物を届けます」


 それでも千里さんは納得しせず「良くない。ぼくは……」と反論を次ごうとする。


「……ついてもらった方がよろしいと思いますよ」

 千里さんが言葉を継ぐ前に、わたし達の様子を見ていた駅員さんが険しい顔で千里さんを諭す。

「突き落とされたわけですから。安全のためにも保護者が来るまでご友人と一緒にいた方が良いです」


 千里さんも駅員さんの言葉に観念したのか、「……じゃあ、そうします」と口にする。


 ではこれで、と駅員さんが一礼してわたし達の元を去る。


 わたしは千里さんの隣の席に座った。

 さっきまで影になっていた、捻挫していない左の足も切り傷だらけで、何をどう転げ落ちたらこんな風になるのか聞きたかった。


「一体何があったんですか? 千里さん。階段から落ちるなんて……」

 わたしはそこで言葉を一度切ると、潜めた声で

「リングバーンですか?」

 ともう一度訊く。

 山手線のホームは『表』でリングバーンと重なる場所。そこで怪我したとなれば、つまりそう言うことだ。


「そう」

 千里さんはあっさりと認めた。

「ハンプティ・ダンプティを追ってたら、反撃を食らって、この様……切符を切って身体と心が現実に戻った時には、もう階段の下」


「ハンプティ・ダンプティって」


「君も知ってる、あのスーツに火焔放射器を持った男」


 ハンプティ・ダンプティ。その名前はわたしは知っていた。

前に読んだ『鏡の国のアリス』に出てくる、丸い卵に顔の付いた姿で、嫌味な性格の、インチキな話で女の子のアリスを惑わせる怪人。

 その名前が、同じ名前アリスとは言え、不思議の国と鏡の国で翻弄されながら冒険を続けた女の子アリスとは正反対の千里さんアリスの口から出てきたのは、意外と言えば意外だ。


「ぼくはあいつをそう呼んでる」

 千里さんは目を細め、眉間に皺を寄せていた。それは決して痛みのせいではないはずだ。

「ずっと倒そうと頑張ってるんだけど、いつも倒せずにいるんだ。今日こそはと思ったけど、やっぱり駄目だった」


「ずっと、ですか?」


 千里さんは無言で頷く。


「中学二年の時にこの街に帰ってきてから、四年間ずっと」


「四年も……」


 四年という歳月、ただ一人で、彼女がハンプティ・ダンプティと呼ぶ恐ろしい市獣と命を賭けて戦っていた。わたしは隣に座る少女の横顔を見つめる。

 自分と同い年の彼女が、そんな長い間、命を賭ける戦いを繰り広げていたというのを、信じるのは難しかった。


「……それで、いっつも傷だらけになってるんですか」

 わたしは千里さんの手の甲についた切り傷を指差す。

「最初の地下鉄のときも、こんな傷作ってますよね」


「これは自分で付けた傷」


「自分で?」


「そう、自分で」


 千里さんの顔が少し緩み、乾いた笑いで答えて、蓬色のジャケットのポケットからわたしがジャンパーのポケットに大急ぎで入れたそれと同じ、丸い車掌鋏を取り出す。

 わたしの持っているそれより細かい傷が幾つも付いた鋏は、千里さんの戦ってきた期間を雄弁に物語っていた。


「ぼくの剣……魔法はさ。強い相手――特にあいつを思いっきり攻撃する時、自分を傷つけてしまうから。戦う時間が長引くと傷も増えるんだよ」


 そう言えば、最初にわたしがリングバーンに入ってしまった時も、千里さんは腕に大きな切り傷を付けていた。

 命を賭けている上に、自傷を誘う武器で戦っている。

 その事実を知って、隣に立つ少女がとても無謀なことをしているように思えた。


 今の千里さんは普段の大人びた孤高の少女の雰囲気はなく、自分と同い年の、ナイーヴな少女の顔――おそらく千里アリスの素顔――が覗いているようにも思えた。

 わたしは千里さんの、右手の甲の切り傷をそっと撫でる。


「もっと自分の体を労ってあげた方がいいよ……」


 不思議と、今は敬語は出なかった。


「そんな風に手を抜いたら、あいつには勝てない……あいつは、本当に強いから」


「だからってこうやって怪我して、痩せ我慢するのはよくない」


 千里さんは眉間を寄せたままわたしを殆ど睨み付けるように、切れ長の目から茶色い瞳で強くわたしを見つめる。

 だけど、その次の瞬間には捻挫した右足を床に付けてしまい、「痛」と呻いていた。


「四年も戦い続ける因縁って、多分わたしが思ってるよりずっと重いんだろうけど。でも自分を必要以上に傷つけないことだって出来ると思う」


「そんな方法……あるわけない」


「あると思う。きっと」


「無責任だ」と千里さんはわたしの言葉を切って捨てる。


 確かに千里さんのことを何も知らないわたしの思いつきでは、そんな風に受け止められても仕方なかった。

 わたしが一緒に戦おう。と言えれば格好良かったかもしれないが、今の半人前のわたしじゃそれこそ無責任な話だ。


『千里アリスさん』と頭上のスピーカーが、千里さんの名前と、診察室の番号を呼び上げる。

 千里さんが立ち上がろうとした瞬間、突然スマートフォンの着信音が千里さんのジャケットから響いてきた。

 着信画面を見て、液晶の光で白っぽく照らされた千里さんの顔は、さらに渋い表情に変わってゆく。

 千里さんの手の中で震え、リズミカルな着信音を奏でるスマートフォンを眺め、暫くして、大きな溜め息の後に電話を取る。

 溜め息の音色は、わたしが『正しさ』を受け止めて、胸がきつくなる時のそれに似ていた。


 千里さんの手の中のスマートフォンからは、内容こそ聞こえないが、声色で怒鳴ってるとすぐわかる女性の声が、隣にいるわたしの耳にも微かに伝わってくる。


「姉さん、大丈夫……だから本当に大丈夫だよ。駅員さんが大げさに言ってただけで、大したことないから。荷物は友達に届けてもらうつもりだし……ええ? もう来る? 診察が今から始まるから……」


 千里さんは電話の向こうの声に終始眉間に大きな皺を寄せながら応対していた。

 が、隣のわたしの耳にまで聞こえる「いい加減にしなさい!」と言う怒鳴り声に目をつぶった後は、悄然とした様子で「はい」「はい」と手短に電話の向こうの声に応えていた。


 通話が終わると同時に千里さんは、電話を取る前より大きな溜め息を吐く。

 今度の音色は、思いっきり叱られた後の子供が吐く、泣くのを堪える時のそれだ。


「……駅員さんが連絡して、姉さんに怪我がバレた。今こっちに来てるって」


 手短に、千里さんは今自分が置かれた状況を――千里さん的にかなり面倒くさい状況だと一目でわかるくらいの苦渋の表情で――わたしに語ってくれる。


「ぼくはこれから診察だから……姉さんになんとか今回の件、ごまかしてくれる?」


「ごまかすって、怪我のこととかですか?」


 うん、と千里さんが頷く。



「リングバーン関連の知識がある分、その辺上手くごまかるはずだから。姉さんはぼくの傷のこと、色々疑ってるからさ」


 千里さんはそう言うと、両腕で上体を持ち上げて、無理やり立ち上がる。

わたしはそれを肩で支えようとする。

 ちんちくりんのわたしの肩に、背の高い千里さんの暖かさと重みがずしりとダイレクトに伝わってくる。

 千里さんが普段片方の足にかけてるだろう重みは、ぎりぎり痛むくらいに重い。


「ここまで来てくれて本当にありがとう。多分ぼく一人だと、もっと難儀してた」


「いいですよ。恩人のピンチですし」


 わたしは笑って応える。


「恩人……」


 千里さんは、恩人という言葉が出てきたのは意外と言った反応だった。


「はい。千里さんには二度も助けてもらいましたし」

 そこで言葉を切った後、わたしは独りごちるように、躊躇いがちに呟く。

「……それに、友達って言うには早い気がして」


「確かに、周りにはそう言うしかないけど……ぼくもそう思う」

 千里さんはちょっと申し訳なさそうに声量を落とす。


「香織なら多分もう友達! って言ってたかもしれませんけど、わたしはそこまではっきり言えないですし……どこからが友達って名乗って良いのかってわかりませんから」


「……ぼくも中学以降は茉莉伽さんがそう言ってくれてるくらいかな」


「じゃあ、この際友達になりましょうよ。わたし達」


 わたしは雰囲気に流されて、口走ってしまった。

 まだ言葉をかわして一週間ほどの相手にそんなこと言うなんて、図々しいにも程がある。

 けど、そうでもしないとわたし達の関係は進まない気がしたので不思議と後悔はなかった。


 千里さんはずっと何か言いたげな様子だったが、診察室の前に着くと「よろしく、百瀬さん」とわたしの名前を苗字で呼んだ。


 わたしは果たして千里さんに信用されているのだろうか。一人ロビーに彼女の荷物と共に取り残されたわたしはそう考え始める。

 あの少女が果たして(傷だらけの緊急事態だったとは言え)どうでもいい誰かを頼ったり、どうでもいい誰かに家族への対応を任せることを良しとするか。

 しかもラインを交換したその日にラインを使って。

 つまりわたしは友達としても頼られてるんじゃないか。などとも考えてもみたが、診察室に入る前、わたしを苗字で呼んだのを考えると、自意識過剰の気もしてくる。


「……でも、不思議かも。ちょっと前まではわたし、千里さんが友達かどうかなんて考えてもなかったわけだし」


 それどころかクラスのイレギュラーで、アンタッチャブルの少女と認識していた千里アリスと親しく会話して、ましてや頼られるなんて思ってもなかった。

 千里さんが、自分のことを『ぼく』と呼ぶのを知ってるのは、多分クラスでもわたしと香織ぐらいだ。

 変わりたいと願う。そうしないとリングバーンに食われると千里さんは言っていたけど、わたしは今まさに変わり続けているのかもしれない。

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